スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第13章 家族


『、、、、、、、、、、、、、、、、、』


 ここで特に私の家族や、家庭環境について深く触れるつもりは無い。

ただ、私の勝手な夢実現のために力を貸してくれた人々の中に、私の家族がいた事は

言うまでも無い。


 大学を卒業した後、就職もせずに、実家に居候しながらヴァイオリンの勉強を

続ける事となった。

甘えてばかりもいられないので、せめて、自分の食費ぐらいは自分で出そうと思い、

毎月両親に1万5千円を上納した。


 私が夜遅くアルバイトから帰宅すると、父親が、まだ終わらない翌日の朝刊に入れる

折込広告の準備を手伝ってくれた事もしばしばあった。


 前にも書いたが、我が家は決して貧しい家庭では無かった。

私を含めて3人兄弟であったが、それぞれが自分の部屋を与えられ、どの部屋にも

エアコンがあり、それぞれがアルバイトをして買った自分のステレオを持っていた。

戦中、戦後の日本を経験した方が聞けば、なんともまぁ、おぼっちゃん揃いではないか。

私もそう思う。

しかし、この時代、少なくとも私の周りを見る限り、大半がこの程度の生活をしていたのだ。

特に金持ちでもなく、子供達も私立ではなく公立の学校へ通わせている一般家庭の

生活レベルは、すでにこれぐらいにまで高まっていたのである。

実に恵まれた時代に生まれ育ったものだと思うと同時に、このような豊かな生活を

与えてくれた社会と両親に感謝したい。


 「毎日がそれでは、身体がもたんやろう、、、 少し援助してやろうか?」


両親が二人で話し合ったのだろう。ある日、親父がこんな事を私に言った。


 『本当に駄目かな、と思ったら、その時は相談するから。今はまだ大丈夫』


私はそう答えた。


 子供の頃から、両親がひたすら働き通しであった事を、自営業であっただけに

目の当たりにしていた。 その彼らにこれ以上の負担をかけるつもりは毛頭無かった。

そうでなくとも、唯一欠くことの出来ない商売道具としてのヴァイオリンだけは、

出世払いと言う約束で甘えたのだ。

ここから先は、私の単なる意地に過ぎなかったのかもしれない。

果たして、それ以上の小遣いをせびろうとしない私を、両親はこの時どのような気持ちで

見ていたのだろうか。

親と言う職業についた事が無い私としては、興味のあるところである。


 スペインから帰国して一年半が過ぎ、「その時」が訪れた。


 実家に居候させてもらったおかげで、それまでのレッスン料、食費、その他の生活費を

差し引いても、50万程度の蓄えが出来た。

アナ・レテックに全面的に甘える訳にはいかないが、これから飛行機代を差し引いても、

現地での生活をぎりぎりまで切り詰めれば、1年ぐらいはなんとか食いつなげるのでは

なかろうか。(注、 当時の飛行機代は格安チケットでも20万円弱だった)

実におおざっぱな計算であった。


 私の出発が近いのを知ると、目に見えてそわそわし始めたのが、母親だった。

そして、いよいよ出発する2,3日前だったろうか。夜になって、母親がテーブルの上に

15万ばかりの金を出して見せた。

それが何なのかと尋ねる私に彼女が言った。


 「これはあんたのお金やで。毎月食費として入れてくれたお金やけど、今のところ、

  おかげさまで我々二人とも元気やし、まだまだ働けるから、このお金は必要やない。

  せやけど、今のあんたには必要やろ。

  自分で稼いだお金なんやから、遠慮なく持って行けばええんちゃうの?」


 親とは、実にありがたいものである。

世の中の親の全てがそうでは無いのかもしれないが、とりあえず私は恵まれていた。

この援助により、飛行機代を差し引いても私の全予算は50万円近く残る事となった。


 かくして、世間一般の線路を大幅にはずれた放蕩息子は、3人兄弟の中で最初に実家を

飛び出す事となる。

兄も弟も見送ってくれた。

弟はやっと原動機付きバイクの免許をとったばかりだったろうか、、、

私が愛用していたバイクを彼に譲った。

兄はそれまで勤めていた会社を辞め、まさにこれから新しい事に取り組もうとしている時

だった。

それぞれがまた、それぞれの道に進むと言う事なのだろう。

私のオーディオセットを彼に譲った。

父親は、一言、「元気でな!」と声をかけてくれた。


「、、、、、、、、、、、、、、、、、」


母親の口から、ついに言葉は出なかった。

22歳の時である。


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