スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第15章 再びのスペイン


『もし良かったらもらってくれないかい?』


 コペンハーゲンを経由して、スペイン上空へとやって来た。

久しぶりに見るスペインの大地は土色に乾いている。


「戻ってきたんだ、、、」


窓から地上を見下ろす私の口から独り言がこぼれた。

1987年9月12日のことだった。


マドリッドのバラハス国際空港に降り立った私は、ヴァイオリンとスーツケース、

そして大きな手荷物があったので、無理をせずタクシーでチャマルティン駅へと

向かった。

そこで列車に乗り換え、約180キロ離れた町、バジャドリまでタルゴ特急で

2時間半の旅である。

到着すると、そのまま、すでに連絡してあった寮へと向かった。

ここは本来、バジャドリ大学の女子寮であるが、夏の間は、バカンスで学生達が

それぞれの実家へ帰るため、その間、男性である私にも部屋を貸してくれたのだ。

ここの寮長とはすでに親しい間柄であった。

夏が終わるまではここに住まわせてもらって、その間に定住する場所を

探さなければならない。

音楽院の学生であり親友であったマリア・ホセに相談した。


彼女は1ヶ月もたたないうちに、私の経済力にあった住まいを見つけてくれた。

そこは大きなマンションで、寝室が6つあった。

自分の部屋を一つもらって、6人での共同生活の始まりである。

部屋代が一人あたり月額にして8300ペセタ。当時のレートで12000円ぐらい だったろうか。

水道光熱費はこれに含まれるが、冬場、電気ストーブをつけると、1時間単位で

電気代の追加請求を受けた。

この時の私の生活費は、部屋代、食費など全てを含めて月額平均23000ペセタ。

これを約1,5倍すると、日本円になる。


当時の私の日々の生活は非常に単純なものであった。

一日中ヴァイオリンの練習をして、夜になると近所のバルへ一杯だけひっかけに行く。

いつも同じバルへ通ったため、すぐに顔を覚えてもらえた。

50代ぐらいだったろうか、数人の姉妹で共同経営しているお店だった。

彼女達と親しくなると、いろいろな話を交わすようになり、すぐに、私が彼女達よりも

貧乏な生活を送っている事を悟られた。

それからと言うもの、夜になって私が店に現れ、当時10ペセタ(15円)のワインを

一杯注文すると、何かつまみをサービスしてくれたのは言うまでも無いが、

ひとしきりその日の出来事などについて話が終わり、私が帰ろうとすると、

必ず一枚の皿に銀ホイールで蓋をしたものを手渡してくれた。

その日の売り物の残りである。

つまり私に恵んでくれた訳だが、私がそれを抵抗無く受け入れられるように

最大限の気を使ってくれた。


「今日もこれだけ残ってしまったのだけど、、、私達はお昼も同じ物を食べたし、

まさか毎日、昼夜と同じものを食べるわけにはいかないんだよ。

かと言って、食べ物を捨てるなんて事は私達には出来ないしね、、、

迷惑かもしれないけど、もし良かったらもらってくれないかい?」


私は、素直にこれを受けた。

これを大事に持ち帰り、翌日の朝食としたのである。

そして、夜になると、洗った皿を持ってまた同じバルへと通った。

まだまだ若く、栄養を取る必要があったあの頃、私の健康を保ってくれたのは

このバルの姉妹達かもしれない。

ある日突然現れて、たった15円のワイン一杯しか頼まない一東洋人に、これだけ温かい

もてなしをしてくれた姉妹があったと言う事実だけで、私はスペインに足を向けて

寝られないぐらいの恩を感じている。

立場が逆であれば、果たして私に、彼女達と同じ事が出来たであろうか?


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