スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第17章 借金の連続


『おまえさん、本当にやる気あるのかい?』


 懐かしい部屋である。 特に何かを飾っている訳でもなく、必要なもの意外には何も無い。

相変わらずの質素な生活ぶりである。

久しぶりの再会に、二人は抱き合って両の頬にキスをした。

ご存知の通り、これは特に恋人の間のみで行なわれる儀式ではなく、極一般的な

挨拶のスタイルである。

二人はコーヒーを飲みながら再会を祝った。

彼女が入れてくれるコーヒーはいつも変わっていた。

コーヒー豆の粉がフィルターで漉されること無く、そのままカップに沈殿

しているのである。

砂糖を入れてスプーンでかき混ぜると、沈殿していた粉が全て浮き上がって、

しばらくは飲めない状態となる。


「本当によく戻ってきたわね」


優しく微笑みながらアナ・レテックがそう言ってくれた。

そして、ちゃんと住むところがあるのかどうか、食事は出来ているのかどうか

など、心配して尋ねてくれた。

私は少なくとも、向う1年間は大丈夫だと伝えた。


「オーケー! それなら、とにかくまた始めましょう。

さぁ、しばらく会わなかった間にどれだけ進歩したのか、見せて御覧なさい!」


あまりの進歩の無さに愛想を尽かされるのではないかとびくびくしながら、

私は日本で仕込まれたヴァイオリンを披露した。


弾き終わると、彼女はしばらく黙っていた。

一体何を言われるのだろうと、気が気でなかった。


「よくぞこの短期間でこれだけやってのけたわね。随分努力したのでしょう。

それに、きっと素晴らしい方が教えてくれたのでしょうね。私にはそれが判るわ。」


ありがたい言葉だった。

これまでやってきた事が無駄ではなかったのだと実感出来たのと同時に、

少しは日本で教えてくれた東儀先生に対する申し訳がたったような気もした。


そして彼女はこう続けた。


「もう私が教えられる範囲を越えてしまったみたいよ。私は兄弟分とは言え、

ヴァイオリンではなくビオラ奏者。

これから先、あなたは、ちゃんとヴァイオリンを弾く人に習わなければ駄目。」


この言葉に私は一瞬戸惑った。

彼女に習うつもりでやって来たのである。それなのにもう教えられないと

言われてしまうと一体どうすれば良いのだろう。

仮に誰か他の人に習うとしても、彼女のように無料で教えてくれる人なんて

そういるはずも無い。


私が困惑しているのが判ったのだろう、彼女は話を続けた。


「心配しなくていいわよ。あなたに私の別れた元ダンナを紹介してあげる。

彼と私は今も同じオーケストラで働いているのよ。」


驚いた。確かに、彼女には小さな男の子がいたが、その父親の事については、

彼女も語らなかったし、私も尋ねたことが無かった。

どうやら、同じ苗字を名乗っていたところを見ると、正式に離婚したと言う訳では

なく別居していたのだろうか。


結局、彼女の言うとおり、元ダンナを紹介してもらう事となり、

その数日後、彼女の家でその人、アンドレス・レテックと初めて会う事と

あいなったのである。


やや細めの体格で、眼鏡をかけていた。

初対面の私を前に、彼はテーブルに置かれた酒のビンを取ってはグラスに注いでいた。

ほぼ透明の酒だったように記憶しているが、それが何だったのかは判らない。

顔はすでに酔っ払っているのだろう、鼻の先まで随分と赤く火照っていた。

私のことを意識しているのかどうかさえ疑われた。


何杯めかの酒を飲み干した彼は、おもむろに尋ねた。


「おまえさん、本当にやる気あるのかい?」


突然の問いかけに、一瞬戸惑ったが、すぐに答えて返した。


『勿論です!』


彼はしばらくの間、両手をテーブルについて俯いたまま黙っていたが、

やがて頭を持ち上げて、こう言った。


「そうか。それでは、おれの流派を受け継ぐと言うのであれば教えてやろう。」


『あ、有難う御座います。頑張ります!

それで、、、謝礼はどれぐらい考えておけば良いでしょうか?』


これが一番現実的な問題だ。

これ次第で私の今後の滞在可能期間が決まってくるのだ。

一年の予定だったものが、半年に縮んでしまうかもしれない。

実に深刻な問題だった。


「おまえさんが金に困っている事はアナから聞いている。

おまえさんが、本当にやる気があると言うのなら、俺は金なんかいらないさ。」


どうして、皆、こうも良くしてくれるのだろう? 

どうして彼らはこれ程までに、他人である私に愛情を注ぐことが出来るのだろうか?

生活にゆとりがあって、暇つぶしに面倒を見ようと言うのでは無い。

自分自身の生活を維持するのに一生懸命なのだ。


日本で世話になった東儀先生、スペインで良くしてくれるアナにアンドレス、

そして行きつけのバルの姉妹達、、、 私は彼らの心の広さに打たれ、

感謝すると同時に、自らの人間としてのあまりの小ささを恥ずかしく思った。

私もいつか、彼らほど素晴らしい人間になれるのだろうか?


かくして、私が自分の夢を追えば追うほど、周囲の人間への愛情と好意の借金は

貯まっていく一方であった。

いつの日か、これを完済する事が出来るのだろうか、、、


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