これだけ反感と嫌悪を抱いている私が、これらと同次元で歴史の話をしてみたところで、
聞く人に感銘を与える事などあるはずがない。
もしも、今までに私がスペインを案内させて頂いた方々の中で、私の話に感銘を覚えたり、
歴史の面白さや素晴らしさに目覚めたと言う人がいたのであれば、それは、全く別のものに
感動されたのである。
それは、おそらく、歴史と言うものが、書物の中で年号を中心に学ぶだけの、単なる学問の
世界なのではなく、それぞれの時代が残した足跡に実際に触れて、それらを自分の目と耳、
手と足で感じてみるものであると言う事を、本人も気づかぬ間に実践し、実感した時に
誰もが持つ感動なのだと思う。
そもそも歴史とは、与えられた足跡を鑑賞し、古人の成し得た偉業や悪行を再認識し、
それについて感動したり呆れたりするものだと思う。
そしてそれらを元に足跡が薄い部分を推理し、自分なりに自由な発想でもって全体の流れを
追っていくのである。
そこに何らかの制限が設けられたり、定説や派閥、タブーなるものが存在してはならない。
それらの自由が奪われた時、そこで歴史は歴史ではなくなり、単なる個人的発想の
押し売りになってしまう。
学校で教鞭をとる人も、バスの中でマイクを持つガイドも、これを忘れてはならない。
押し付けるのではなく、自由な発想の持つ無限の可能性とその楽しさを感じさせてあげる
手助けをするのがその役目なのではなかろうか。
これを感じる事が出来た時、かつての劣等生でさえ、人に感銘を与えることが可能
なのだと思う。
我々のような現地在住ガイドでは無く、日本からツアーに同行する「添乗員」と言う職に
ついている方々がおられるが、今までに彼らの口から何度も同じ事を聞いたことがある。
「バスの中で歴史の話なんてしても、どうせ皆寝てしまって誰も聞いてなんかいないのよ。」
私は彼らに尋ねたい。
『あなたは自分で歴史を感じてそれに感銘を受けて話していますか?
ガイドブックやその他の書物で暗記した事をそのまま繰り返しているだけでは
ありませんか?』
学校の教師も、ガイドも、添乗員も、他人の書いたシナリオをリピートするだけのために
雇われているのではないはずである。
人に話す時は、いつも一つのテーマを持った弁論大会に出場しているのである。
自分の弁論をせずして、どうやって人を感動せしめることが出来ようか。
自分の言葉は自分の口からしかその本来の効果をもって発せられることは無いのである。
他人の弁論をリピートするだけなら、カセットテープに任せておけば良い。