イベリア半島を車で旅すると、頻繁に目に付くのが、国道の脇に立つ巨大で真っ黒な牛の形をした
看板である。
スペインを訪れた方であれば、1度や2度は、この看板を目にされた事があるだろう。
ツアーで来られた方は、バスの中から窓越しに、なんとかこの看板をカメラに収めよと努力した方も
多いのではなかろうか。
荒涼とした大地に突然現れるこの黒牛は単にコマーシャル用の看板であるにせよ、なかなか
迫力のあるものである。
マドリッドからトレドへ走る途中にも、この看板が一つ見えるのだが、そこで私はツアー客からこんな
質問を受けた事がある。
「闘牛の看板と言う事ですが、この看板があるとその近くに闘牛用の牧場があるのですか?
それとも単に闘牛と言うものの宣伝なのですか?」
私はすぐにピンと来て、隣に座っていた添乗員の顔を見ると、ばつの悪そうな顔を私に向けている。
このツアーは、昨日までずっと添乗員だけが同行する形で旅行を続けてきたのだ。
ツアーの安売り合戦に勝つため、人件費削減の一環として、我々のような現地在住ガイドのサービスを
はずしたツアーなのである。
ツアー参加者は添乗員をガイドと勘違いしているが、これにはとんでも無い大きな相違がある。
添乗員と言うものは、普段から日本に住み、仕事があると、いろいろな国へグループに同行して、
ツアーの日程が滞りなく行われているかどうかを管理する人であり、その国の言葉、習慣、
文化については、基本的にガイドブックその他、書物で勉強した程度の事しか知らない。
それでも同じ国に何度か仕事で行くうちに、現地ガイドからいろいろな話を聞いたり、自分なりに
勉強を続ける事によって、それなりの知識を蓄えていく人もいるが、それでも、その知識には限界が
あり、長年その国に住んで実際に生活をしている人達のようには、その社会も文化も知りようが
無いのである。
一方、現地在住のガイドと言うのは、その国に生活の基盤を置き、その国の滞在労働許可証を持ち、
その国で税金を払い、その国で不動産契約をし、その国で子育てをし、まさにその地の文化に
どっぷりとつかり、観光地の表面的な説明だけではなく、その国の生活全てにわたって様々なお話を
伝える事が出来る人々の事である。
昔は、ほとんど全てのツアーに、日本から同行する添乗員とは別に、この現地在住日本人ガイドが
同行した。
この時代にツアーに参加された方々は、この国の文化に深く触れられたはずである。
ところが、近年のツアー安売り合戦の結果、ほとんどのツアーが、この一番大切な、文化の
掛け橋となってくれるはずの、現地在住日本人ガイドサービスを取り除き、ツアーに参加する人々には、
添乗員=ガイドであると言う錯覚を植え付けることに成功したのである。
昨今のツアーを見ていると、参加者が、添乗員のことを「ガイドさん」と呼ぶ事のいかに多いことか。
これについては、添乗員業に携わる方々にとっても実に迷惑な話なのである。
なぜならば、彼らは自分達の意思とは関係なく、その所属する会社から、各国でガイドに成りすまして
違法労働を行う事を強要されているわけで、これはこの状況を知っている誰かが現地当局に訴えると、
その場で違法労働を行っている添乗員が連行され兼ねないという事を意味する。
そうなった場合、果たして、大手旅行社を含め、彼らの身柄を保証してくれるのだろうか?
最近では参加者が40人近いツアーも良く見かけるが、それだけの客を残して、突然、添乗員が
警察に連れて行かれると言う場面を想像して頂きたい。
それも、日本では誰もが知っている「信頼できる」大手旅行社のツアーでである。
実のところ、どこの会社に限らず、私が知る限りは、ほぼ全ての旅行会社が、今説明した違法行為を
添乗員に強要しているようである。
この違法性については、当の添乗員も認識していないケースが多いようだが、いざ災難が
降りかかったとき、他の誰でもない、自分自身が連行されるのであるから、当然そのことを
良く理解した上で、そのような理不尽な労働条件を受け入れるのか受け入れないのか、
判断するべきだろう。
実際に、違法労働を訴えられて、ツアー客をその場に残して連行された添乗員はこれまでにもあった。
中には、外国で仕事をしても、給料さえ日本でもらっていれば、労働したことにはならないなどと、
全く都合の良い勝手な解釈をしている方もおられるようだが、一体どこから、そのような説を
持ち出してこられたのか疑問である。
少なくともツアーで行く全ての国々の弁護士と相談されたのであろうか?
まさか、日本の弁護士が、そのような事に精通しているなどとは信じておられまい。
それぞれの国でとられた行動は、それぞれの国の法律で裁かれると言う事ぐらいは、常識として
ご存知のはずである。
ちなみに、ここスペインについて言及すれば、例え給料を他の国から支給されようが、
労働そのものを、その国で、しかも、添乗員のように繰り返し習慣的に行っている場合、
完全に不法労働とみなされる要因が存在する。
「闘牛の看板と言う事ですが、この看板があるとその近くに闘牛用の牧場があるのですか?
それとも単に闘牛と言うものの宣伝なのですか?」
それぞれの国の知識を持たない添乗員業の方々がツアーの移動中に、バスの中でマイクを持って
解説をした結果、黒い牛の看板についてのこのような突拍子もない質問が飛び出して来る訳である。
ちなみにあの看板は、あるお酒の会社のロゴマークである。