話が長くなって来たが、ここで、56章の最初に書いた「インターネットで検索」にテーマを戻したい。
17年近く、HP「スペインなんでも情報リアルタイム!」を運営して来て、最も大きな変化として
感じているのは、掲示板の利用方の変化である。
礼を欠いた利用者、そして、先に触れた「オープンなネット世界」から「カラオケボックス的な
閉鎖的ネット世界」への変化が現実世界に与えうる影響の話は別にして、極普通の利用者に見られる
大きな変化についても少し触れておきたい。
SNJの掲示板は、集まったスペインファン等が見守ってくれる中、すでに16年以上もの間、
存続している訳だが、その間、他の消えていった掲示板と同様に、一部の非礼なユーザーによる
「荒らし行為」を何度も受けながら、今に至っている。
「はじめて投稿する○○と申します。近く、スペインへ旅行する予定ですが、、、、」
以前は、おおよそこのような書き出しで、スペインに関する質問を掲示板に残す人が多く見られた。
そして、私を含め、いろいろなスペインファンからの返事が書き込まれると、
「有難う御座いました」と言う、人として極当たり前の「お礼メッセージ」が返って来たものである。
ところが近年になって、大きな、そして顕著な変化が見られるようになった。
質問を書き込む人の文章に、次の3点が欠落していることが多いのである。
一、 初めて書き込む時の、最低限の挨拶。
二、 見ず知らずの人々に情報をお願いする時に適切と思われる言葉遣い。
三、 情報を貰ったあとのお礼。
国語のテストを行なうのではないのだから、多少、日本語の間違いがあっても何ら問題は無い。
海外暮らしの長い私が掲示板に残すメッセージの中には、数えきれない程の誤字脱字、
間違った表現、適切では無い敬語や丁寧語があると思う。
日本語を正しく使えるのに越したことは無いが、この際、それについては何も言うまい。
ただ、最初の挨拶、他人に何かをお願いする時の言葉遣い、そして、それに答えてくれた人への
感謝の気持ちを表す言葉、これら3点は、人として欠くわけには行かない最低限の要素では
無かろうか。
これまで掲示板上で、これら最低限の例を欠く書き込みに対し、何度、説教を打ちたくなったか
判らないが、誰も私に道徳の教えを乞うている訳でも無し、また、ああ言った半公共の場で叱責を
受けた人が、それを素直に受け止める事も難しいであろうと想像出来るため、口を閉ざすように
して来た。
では、どうして、ここ僅か10年程度の間に、こう言った、最低限の常識を欠いた投稿が
目立つようになったのか?
日本の社会の変化、教育の変化等、いろいろな理由が考えられると思うが、私が感じる一番の理由は、
「インターネットで検索」文化の普及である。
これはすなわち「会話の消滅」であり、= 「人間性の重大な一部分の消滅」である。
何でもヤフーで検索、グーグルで検索。
とても簡単である。
他人に頭を下げて教えを乞う必要も無ければ、分厚い辞書や百科事典を開いて、小さな文字で
書かれた目次や索引を追う必要もない。
私自身、この「インターネットで検索文化」にどっぷり浸っている一人だと思う。
ネットの検索機能に慣らされてしまった結果、人と人との交流が極端に希薄となり、
そこに社交性と言う、人間が人間であるための非常に大切な一面の消滅現象が広がる。
そしていつの間にか、掲示板で質問を書く時にも、グーグルの検索窓に書き込むのと同じような感覚で
書き込む人が増えて来たのでは無かろうか。
インターネットの検索機能で検索する時には、挨拶も必要なければ、敬語や丁寧語を使って
書く必要も無い。
書き込まれた単語をデーターベースに照合するだけのロボットが相手であり、これに慣らされた人々が、
今、人間が相手になると、満足な形での質問すら出来なくなりつつある。
知りたい情報検索に最低限必要であろうと思われる単語だけ書き込んで送信すれば自動的に
解答が返って来る、そんな感覚だろうか。
その質問に、出来る限り正確で安全な情報を返してあげようと、複数の人間が時間を費やして
情報を確認し、そして書き込んでくれた、、、などとは夢にも思っていない。
掲示板だけでは無い。
メールでの問い合わせについても、似たような現象が認められる。
もう一つ、この「インターネットで検索」文化と、「壁に囲まれた避難ルーム内限定ネットワーク」の
普及による明らかな弊害について述べてみたい。
第56章で、MHのダイニングに集まった利用者が、あまり会話もせず、それぞれが各自の持つ
スマートフォンやタブレットと言う「魔法の端末」の世界に浸っている光景について少し触れたが、
一昔前、この「魔法の端末」により作り出される独自の世界がまだ存在しなかった頃、MHの
ダイニングやサロン、そしてオフィスでは、常に利用者同士の、そして利用者と我々スタッフとの
豊かな会話が存在していた。
勿論、今でも会話を楽しんではいるが、以前は今以上に「人と人との対話」の機会が多かった。
この変化の結果、生じている一つの大きな弊害を例に挙げると、以前なら、MHに滞在する方々が、
スペイン国内を旅行するにあたり、我々スタッフに対し、いろいろな質問をして来たのに対し、
今ではその疑問を全て「魔法の端末」で解決した「つもり」になっているのを良く見かける。
我々が、「何か質問があれば、何でも訊いて下さいよ」と対話を促しても、他人の教えを乞うよりは、
ロボットに質問する方を選ぶのである。
そして、ネットで見つけた情報を鵜呑みにする。
我々のようにスペインに住み、頻繁に現場へ足を運んでいる「現地の人」に相談するのではなく、
出所も、信憑性も、時に古いか新しいかも確認出来ない、ロボットが示す検索結果を鵜呑みにする。
その結果、小旅行が終わってMHに戻って来た人に、「旅はどうでしたか?」と会話を促すと、
さまざまなトラブルに遭った話が飛び出してくる。
『あんな所へ行ったの? どうして行く前に一言、相談しなかったの?』
「ネットで、お勧めって書いてあったから、、、」
近年、このような会話が当たり前のように繰り返されるようになった。
我々にとって、これがどれほど残念な事か。
そんなことは知りすぎる程に知っている我々がすぐ傍にいて、それを避けてあげられなかった事への
口惜しさを御想像いただけるだろうか?
これが、人と人との対話が失われていった結果として、頻繁に見られる弊害の一例である。
先に触れた、「インターネットで検索」ウィルスに侵され、人間が持つ本来の社交性と言う一面が
失われて行った結果、インターネット上にある掲示板を通じてでも、また、すぐ傍にいる人が相手の
直接対話であってでも、ろくに質問すら出来ない、そう言った人が間違いなく増えつつあるのを
感じる中、更に恐ろしい事に、その現象を、私も含め社会全体が容認しつつあるように思える。
人間性の部分的消滅が確実に表面化しつつある中、それを社会が指摘、指導するのではなく、
「諦め」に始まり、更には逆にその「異常」に慣らされた結果、容認すると言うよりは、極当たり前の
出来事のように受け流すと言う現象もまた、はっきり表面化しつつあるように思えるのだが、
それでは、このままこの傾向が続くと、この先、我々の住む世界はどうなって行くのだろうか?
そして私自身、この巨大な流れの中に飲み込まれるがままで良いのか、自分だけでも何かしらの
抵抗を続けて行くべきなのか、或は、自分に限った範疇では無く、その抵抗の姿勢を世の中に向けて
訴え続けていくべきなのか、時々考え込んでしまう時がある。
先に私は、魔法の端末、携帯電話の変化発展については蚊帳の外にいるが、パソコンを通じた
インターネット世界については、完全な落ちこぼれとならぬ様、僅かながらの努力を続けていると
書いた。
その僅かばかりの努力とは、次の2点である。
- 「仲間内」、「お友達」と言った壁によって囲まれた制限付きコミュニティー、つまりは、
カラオケボックス的なプライベートコミュニティーと言う形でのインターネット利用では無く、
一切の壁を持たない全くオープンなインターネット本来の形を維持した活動を続ける事。
- インターネット本来の形を維持した活動を通じて、明らかに広がりつつある「人間性の
部分的消滅」ウィルスに対し、それに対抗し得るワクチンを作るための極小さな「核」と
なるもの、、、「壁」も「ロボット」も無い、人と人との直接対話の場として、
HP「スペイン何でも情報リアルタイム!」と「マドリッドのおうち」を保持する事。
こんな小さなこだわりに何の意味があるのか、また、いつまでこのような自分の思い込みに
過ぎないかもしれない活動、単なる時代錯誤的活動に過ぎないかもしれない事を続けているのか、
私にも判らないが、いずれ時代の流れの大波に飲み込まれるとしても、まだしばらくは
踏ん張ってみようと思う。
何故なら、某出版社より「50歳から始める2度目の人生」と言うテーマで本を書いて欲しいと
頼まれたのがきっかけでこの駄文を書き始めたのに、今、50代に足をかけたばかりの私が
さっさと時代の大波に飲まれて沈没してしまうのは、あまりにも格好悪いから。