赤い背中 -谷口さんの原爆体験- 


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2017年4月、スペイン、ゲルニカの爆撃から80年を迎えました。

これに合わせて行われた世界平和を願う記念式典に長崎から約30名の方々がお越しになり、

この平和巡礼の旅実現のための現地手配・コーディネート、そして全行程への同行・案内をさせて頂く機会に恵まれました。

日本人の多くの方々の記憶からすっかり忘れ去られてしまった「戦争の悲惨な記憶」、、、、

私自身も、その「忘れてしまった一人」と言うよりも「知らずに育った一人」ですが、 この旅にご一緒させていただく事によって多くの事を学ばせて頂きました。

実際に被爆された方々でご存命の方々もすでに御高齢となっており、ご自身の口から戦争の体験と教訓を 後世の人々に伝え続けることに限界を感じておられるようです。

そう言った中で、貴重な体験談を紙芝居にして残し、若い世代へ伝えて行こうと努力されている 被爆者の一人、末永 浩さんから、紙芝居の一つを頂きました。

この紙芝居による原爆体験を、スペインからも世界へ向けて広く発信してください、、、とのことです。

いずれ、スペイン語に訳してスペイン語版による公開も行ないたいと思っていますが、それに先立って まずは、日本語での公開を開始させて頂くことにしました。


谷口さんの原爆体験 - 赤い背中 - をご紹介させて頂きます。

尚、ネット上での公開については 先述のとおり、末永 浩さんからの正式なご依頼と御了承を頂いておりますが、 内容のコピー、転載については、私にその許可を出す権利がある訳ではありませんのでご遠慮、願います。

By マドリッドのくま


はじめに

私たち原爆被爆者は高齢化して、今後の世代への継承が課題となっています。

私もいつまで被爆体験を語れるだろうかと不安です。

そこで私は被爆者の体験を絵本や紙芝居にして残すことを考えました。

これなら、誰でも、いつでも、どこでも、語って聞かせることができます。

この絵本が多くの人々によって、語り継がれ、活用されることを望みます。

末永 浩



谷口稜曄、1929年生まれ。

長崎市住吉町の路上で郵便配達中に被爆、重傷を負う。

1945年11月、長崎市の新興善国民学校から、大村海軍病院に入院。

1年9ヵ月うつぶせのまま生死の境を過ごす。

1956年長崎原爆青年乙女の会結成。

第2回原水禁世界大会以来、国内外で原水爆禁止を訴える。




〜 1  自転車で走っていて被爆 〜


1945(昭和20)年8月9日、午前11時ごろ、私は当時16歳で、爆心地から1800メートルの所を自転車で走っていて被爆しました。



〜 2  爆風で道路にたたきつけられる 〜


原子爆弾の3000度から4000度の熱で、背中を焼かれました。

目に見えない放射能も受けました。


私は自転車に乗ったまま、ものすごい爆風によって道路にたたきつけられました。



〜 3  長崎の惨状 〜


それが長崎への原爆投下だったのです。



〜 4  死の恐怖におそわれる 〜


道路に伏せていても地震のように揺れ、ややもすると吹き飛ばされそうになり、飛ばされないように道路にしがみついていたのです。

途中で頭をあげて見ると、建物は吹き倒され、近くで遊んでいた子供たちが、埃(ほこり)のように飛ばされていたのです。


私は近くに大きな爆弾が落ちたのじゃないだろうか、このまま死ぬんじゃないだろうかと、死の恐怖におそわれました。

その時、私は死ぬものか、死んではならないと、自分で自分を励ましていたのです。


しばらくして、騒ぎが収まって起き上がると、乗っていた自転車は使いものにならないほどに、車体も車輪も曲がっていました。



〜 5  皮膚が焼けただれ 〜


自分自身の身体をよく見ると、左の手は、肩から手の先まで、ぼろ布を下げたように皮膚がたれ下がっており、背中に手をやってみると、ぬるぬると焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。



〜 6  子どもたちも黒焦げ 〜


改めて周囲を見まわすと、近くの家はつぶれてしまい、山といわず、家といわず、方々から火の手があがっていました。

さきほどまで元気で遊んでいた子どもたちが黒焦げになり、そばには全然傷を受けなくて死んでいる子どももいました。



〜 7  傷だらけで苦しみもだえて 〜


女の人が、男か女か見分けもつかないほどに髪は抜け、目は見えないほどに顔がはれあがり、傷だらけで苦しみもだえていました。

今でも、昨日のことのように忘れることができません。

苦しみ、助けを求めていた人たちに、何もしてあげられなかったことが、今では悔やまれてなりません。



〜 8  住吉の兵器工場トンネルにたどり着く 〜


私の傷からは一滴の血も出ず、痛みもまったく感じなかったのです。

多くの被爆者は、水を求め黒焦げになって死んでいきました。

私は、水が欲しくとも「水をくれ」と言うこともできませんでした。

(苦しみもだえることもできず)夢を見るように歩いて200メートルぐらいの所の住吉の兵器工場のトンネルにたどり着き、腰をおろしました。


トンネルの中にはたくさんの被爆者がいました。

工場にいた元気な女の人にたのんで、手に下がっている皮膚が邪魔になるので切り取ってもらいました。

焼け残ったシャツを引き裂いて、(機械)油で傷を拭いてもらいました。



〜 9  「水を、水を」と言って死んでいく 〜


しばらくして「ここは危険だからほかの場所に移ってくれ」と言われました。

私は、自分の力で立つことも動くこともできませんでした。

元気な人が背負って山まで運んでくれました。

周りにいる人たちは、自分の名前を、住所を、家族の名前を呼び、「水を、水を」と言いながら、次から次へと死んでいきました。



〜 10  夜が明けると死人だらけ 〜


夜になると、方々が燃えているので明るく、人の動きが見えました。

時々、アメリカの飛行機が来て機銃掃射し、その流れだまが私の横の岩に当たって草むらに落ちることもありました。

幸いに雨が降り出したので、木の葉から落ちるしずくを飲んで一夜を過ごしました。

夜が明けると、私の周りには一人も生きた人はいませんでした。



〜 11  灰を油に混ぜて背中に塗る 〜


2晩過ぎて3日目の朝、救護隊の人たちに救助され、諫早(いさはや)の小学校に収容されました。


それから3日間、傷から血がしたたり出るようになりました。

それとともに傷の痛みが激しくなってきました。


1ヵ月以上、治療らしい治療は無く、紙を焼いた灰を油に混ぜて背中に塗っていました。



〜 12  腹ばいのまま1年9ヵ月 〜


9月の中ごろ、長崎市内の焼け残った新興善国民学校に送られました。

ここではじめて医学的な治療を受け、輸血を受けましたが(内臓が侵されていたのでしょう)、血液が身体に入って行かなかったのです。


月日が経つにつれて、身体は弱り、焼けた部分は腐って流れました。

流れたものを1日に2回も3回もすくい取って捨てなければならないように、たくさん溜まっていました。


私は身動き一つできず、座ることも横になることもできません。

腹ばいのままで1年9ヵ月、痛みと苦しみの中で、「殺してくれ」と叫んでいました。

誰一人として私が生きていられると言う人は無く、毎朝、医者や看護婦さんたちが、「今日も生きてる」、「今日も生きてる」と、ささやいておられました。


私には生きるという言葉は無く、私の家のほうでは、いつ死んでも葬儀ができるように準備していたそうです。



〜 13  3年7ヵ月で退院してはみたけれど 〜


新興善国民学校から、1945(昭和20)年11月、大村海軍病院へ移りました。

腹ばいのまま身動き一つできなかったので、私は、胸の方も床ずれで骨まで腐りました。

今でも切って取ったようになっており、骨の間から心臓の動いているのが見えるようになっています。


1年9か月経って動けるようになりました。

3年7ヵ月経って、傷はよく治らないまま退院しました。

その後も入退院を繰り返し、1960(昭和35)年まで治療を続けました。


1977(昭和52)年にケロイドの所に腫瘍(しゅよう)ができて手術を受けました。

1984(昭和59)年から医学的にもわからない、石のような固いできものができて手術を繰り返しております。


現在もそのできものはできており、月日が経つにつれて大きくなり、それとともにだんだん固くなります。

それとともに私の身体は衰えていくのです。

このようにしていつもズキズキ傷んでおります。



〜 14  核の無い世界を見とどけるまでは死ねない 〜


私たち被爆者は、一発の原爆のために、身体も心も、たましいまでも奪われました。

苦しみながら生き続けてきました。


今では人間の手によって、世界の文明文化や化学は発達しました。

ボタン一つ押せば、世界人類を何十回も殺すことができるような核兵器があります。


私は、人間が人間でなくなることを体験した者として、再び私たちのような人間を作らないため、世界の人々に訴えます。


核兵器と人類は一緒に共存できない。

核兵器で人類や地球を守ることはできない。


私たちが生きているうちに地球上から核兵器を無くすために、人道的立場に立って、皆さんも行動を起こしてください。


私も、核の無い世界を見とどけるまでは、安心して死んでいくことはできません。

ともに頑張りましょう。



〜 筆者経歴 〜

末永 浩(すえなが ひろし)

1936(昭和11)年、長崎市生まれ。

戦争中は諫早に疎開し、入市被爆。

新制中学校卒業後、郵政省の職員として働きながら、高校、短大、大学を卒業し、長崎県の中学校社会科教員として働き、平和教育に取り組む。

定年後、被爆体験を国内外で語る。

長崎平和推進協会継承部会員。




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