((((( Spain Nandemo Jouhou Real Time !! )))))

PENELOPE CRUZ

今スペインでどんな映画がはやってるのか、
最新の情報を現地から
ちょっと独断と偏見を交えてお届けします。


★スペイン映画界注目の俳優さんたちをこちらで紹介してます。★



インデックス

2002年の作品

*Deseo / 欲望(2002/11/19)
*El robo mas grande jamas contado / 至上最高の泥棒大作戦(2002/11/13)
*800 Balas / 800発(2002/10/31)
*Los lunes al sol / 月曜日にひなたぼっこ(2002/9/29)
*El viaje de Carol / キャロルの旅(2002/9/20)
*La Caja 507 / 貸金庫の番号は507(2002/9/10)
*Smoking Room / スモーキング・ルーム(2002/6/15)
*Fumata blanca / フマタ・ブランカ(2002/5/15)
*El Embrujo de Shanghai / 上海の魅惑(2002/5/05)
*Hable con ella / 彼女と話してごらん(2002/3/25)
*Piedras / ピエドラス(2002/3/8)
*A mi madre le gustan las mujeres / 私のママは女の人が好き(2002/1/23)


Deseo /欲望


監督:Gerardo Vera
出演:Leonor Watling, Leonardo Sbaraglia, Cecilia Roth, Rosa Maria Sarda, Ernesto Alterio, Nomra Aleandro 他


第2次世界大戦もまもなく終結をみようという1945年。エルビラは、ある高級マンションの管理人夫婦ロヘリオとロラから独身実業家であるパブロの家政婦の職を紹介される。体の不自由な母、左よりの思想家の妹ラケルを養わなければならないエルビラにとって、この邸宅での仕事は必要なものであった。
ほどなく、ドイツ系アルゼンチン人である雇い主のパブロは聡明で美しいエルビラに惹かれ、エルビラもまた夫を持つ身でありながらその誘いにこうじきれず、2人は愛し合うようになる。しかし、2人の間には絶対に相容れないものが存在したのだった。パブロはナチスドイツの高官をスペイン経由でアルゼンチンに亡命させる秘密エージェントであり、エルビラはスペインのファシストたちに父を銃殺されたという忘れがたい過去をもっていた。 刑務所から帰ってきたエルビラの夫フリオは、この事実をエルビラにつきつけ、2人の関係を清算させようと迫るが、すでに時は遅く、後戻りができない状況となってしまっていた。。。

ヘラルド・ベラ監督の新作は、どうやっても頭では理解することのできない男女間の欲望を思いっきりクラシックな手法をもって描いた恋愛物語。
現代のようになんでもありありの時代と違って年代をさかのぼればさかのぼるほど、男女間の恋愛というのは制限が加えられているものである。時は戦時中、身分差、思想の相違、不倫関係、と、言ってみれば“クレブロン”。“クレブロン”とはスペインでいうところの昼メロのこと。南米制作の全くもって大げさな、家族や敵味方をごちゃごちゃいりまぜ恋愛や憎悪などをねちこく描いたドラマの総称である。日本でも10年以上も前に「嵐が丘」の日本版をドラマ化して昼間の30分枠で放送していた記憶があるが、そういうものである。
基本的にその“クレブロン”は質が悪い。見てて辟易するようなものが多い。(見始めるとはまってしまうのだが)ところが、この本作品は“クレブロン”の要素をもっていながら、全く全景が違う。これはひとえに脚本の上品さと演じる者のレベルの高さに依存しているといえる。ベラ監督は前作「Segunda piel」で人の機微をこまやかに描くことで定評のあるアンヘレス・ゴンサレス・シンデを脚本に起用して同性の共感を得、今回は、アンヘレス・カソという作家を脚本家に迎えた。第2次世界大戦に表向きは参加していなかったスペインも独裁政権下でフランコがナチスドイツを水面下で援助していた史実については綿密に調査し、今回の作品に反映させた、という。ただのフィクションではない、ということである。

そして、この恋愛物語の主人公となるのはレオノール・ワトリングとレオナルド・スバラリア。やはり、美しい愛の物語はそれ相応の美男美女でなければならい。そうでなければ、一目見て惹かれあう、というお話に嘘臭さが漂うではないか。(と私は勝手に思っている。) 特にレオノール・ワトリングがいい。家政婦として働きながらも気高さをうしなわず、かたくなな冷たさを放っているのだが、パブロを受け入れたとたんに女に豹変するところは息を呑むほど美しく、あでやかである。使用人としての遠慮が全て消え去り、愛人としての大胆さが空気をかえてしまうかのようである。レオナルド・スバラリアも世界中の女性を骨抜きにしてしまうのでは、と思われるようなやさしい笑顔と、眩しく見えるほどに自然に創り上げた裸体によって、レオノールに対抗している。
この2人を最大限に美しく見せる効果を担当しているのが、撮影監督のハビエル・アギレサロベ。最近では、アメナバルの「Los otros (Others) 」やアルモドバルの「Hable con ella」、フェルナンド・トゥルエバの「Nin~a de tus ojos」などなど、普通の場面を劇的に変化させる技術を擁している。各場面において効果的な光と色彩を支配することに長けた専門家が指揮をとることによって、どれだけ映像が変化するかというのは、ロケのフィルムと出来上がった作品とを比べてみると非常によく分かる。21世紀に作られたセットが半世紀以上前の都市の風景にとってかわられるのだ。

さらに脇を固めるのがセシリア・ロス、ロサ・マリア・サルダ、エルネスト・アルテリオ、エミリオ・グティエレス・カバなどで、アルゼンチンからはノルマ・アレアンドロが特別出演している。(ちなみに、レオナルド・スバラリアもセシリア・ロスもアルゼンチン出身、エルネスト・アルテリオも父エクトル・アルテリオがアルゼンチン出身である。)非常に豪華なキャストである。この中でもロサ・マリア・サルダは口がきけないエルビラの母親役を好演。もちろんセリフが一言もない中、表情、目の動き、不自由な体の動かし方などで全てを見せるところはベテランの渋さである。

愛の物語に始まりがあれば終わりもあるはずである。決して許せない価値観を持つ相手を愛してしまったことが自らを傷つけ、憎しみを増幅させる。終わらせることを望んでも感情は、肉体はそれを否定する。欲望は意思とは無関係に走り出す。無理やりとどめること、それは悲劇を生む。悲劇を避けるために自らをだますことはさらなる悲劇を生む。2人の関係がどのように終焉を迎えるか、その答えはひとつしかない。。。

BY TAKA(11月19日)


El robo mas grande jamas contado /至上最高の泥棒大作戦


監督:Daniel Monzon
出演:Antonio Resines, Manuel Manquin~a, Neus Asensi, Jaime Balnaran, Javiel Aller, Sancho Gracia 他


“エル・サント”は「人が考えつかないような」ものを盗むことで新聞の一面に出ることを夢見るが、いつまでたってもその夢を果たせないままムショとシャバを行ったり来たりしているケチナ窃盗犯。その妻ルシアがその日暮らしのためにストリップ小屋で踊っているのに耐えられず、ひやかした客を殴って、ムショに逆戻り。
売れない画家兼彫刻家の“ソルバ”は食うに困ってリャドロの店の展示品と自分の作品とをすり替え捕まり、ムショ送りとなる。
小人であり、すばやい動きを身上とする元サーカス団員のピニートは飛行機内の荷物室に忍び込み窃盗を働くのを生業とするが、荷物の中にあった死体を見たとたん神経がいかれ、御用となる。
“ウィンドウズ”はコンピューターに関して天才的な頭脳を持ち、それを悪用しては小金を稼いでいるが、あるとき、悪ふざけが過ぎて、ブタバコへ送られる羽目に陥る。 ムショで顔を会わせた4人はシャバに出てから、誰も考えた事のないような「どでかいこと」を計画することに。それは、ピカソの「ゲルニカ」を盗み出すこと、だった。。。

ダニエル・モンソン監督の第2作目。前作「El corazon del guerrero」では、TVゲームが大好きという監督ならではの現実とファンタジーの世界の区別がつかなくなった主人公を中心としてデジタル映像を駆使した新しいタイプの作品を披露した。今回は、とにかく誰もが楽しめる作品を作る、ということにこだわったという。映画評論家上がりでもある同監督はデビュー作で、批判する側が制作する側に移ったときに陥りやすい罠にかかった。非の打ち所のない作品を作ることに集中しすぎて、映画を見る一般の人々のことを考えていなかったのだ。実際にはガス欠をおこしたかのように、作品自体が尻すぼみになり、テーマがずれてしまって穴だらけの作品だったが。
今回は、絶対できないことをやってのけること、の痛快さを映像を通じて一般の人々に伝えることに徹した。前代未聞の窃盗ときけば、最近では「ミッション・インポシブル」や「オーシャンズ・イレブン」をまず想像する。洗練されたかっこよいプロの泥棒たちが美しい方法で技の華麗さをみせつける。もちろん、これらの作品を意識していることは明らかである。しかし、かっこよくない間抜けな泥棒たちが、自分のこだわりを捨てずに、ゼロに近い実現の可能性を追うのを見るのは、手に汗にぎる緊張感がなく、なんだか楽しい。けなしているわけではない。次から次へと息を呑むシーンを連発されると、楽しむ暇なくラストまでもっていかれ、疲れきってしまうことがある、といいたいのだ。

「ゲルニカ」はご存知の通り、ピカソの傑作、マドリードのソフィア王妃美術センターに展示されている。以前は防弾ガラスの中におさめられていた。政治色が強すぎて、襲撃の可能性が指摘されていたからである。それが、あるとき、人前に無防備にさらされることとなった。同美術館を訪れたことのある人なら絶対見たことがあると思うが、この作品、とにかくでかい。縦が3メートル以上、横が7メートル以上あるしろものだ。これをどうやって盗んで運ぶのか、というのからまず難問である。そして、防犯カメラをごまかすために、ゲルニカのレプリカを飾っておこうというのだからあきれる。レプリカを製作するのはソルバの役目。とはいえ、その出来上がった作品ときたら。。。どんな風だったかをここで言ってしまうと映画を見たときに楽しさが半減するので控えるが、とにかくソルバのこのこだわりがすばらしい。個人的には何も背景を考えなければ、ソルバの作品の方が好きだが。。。

本作品に主演する5人のうちの3人は前作にも出演していたアクのつよ〜い人々である。ルシアのネウス・アセンシはサンティアゴ・セグーラの「トレンテ」などその他いろいろと出演しているが、思いっきりボディーいじってます、というような肉体を披露しH系の役が多い。今回も期待を裏切ることなくサイボーグのような体をさらしている。
ウィンドウズ役のハイメ・バルナランも前作はゲームおたく、今回はコンピューターおたくとむっちり系の体がマッチ。
ピニートは彼しかできない小人のハビエル・アジェール。エキセントリックな芸風、強烈な運動能力と一般人ではとって替わることのできない貴重な存在。ただし、まともな役を要求されることがあるのだろうか。。。と首をひねってしまう。
そして、“エル・サント”は紹介することもないであろう、アントニオ・レシネス。まぁ、彼でなくてもよいであろう、と思う。可もなく不可もなく。
ソルバ役はマヌエル・マンキーニャ。出演作はいろいろあるが、あまり有名な俳優さんではない。主役をひきたてるのにはうってつけの人物で、この人が映画の中でじゃまだ、と感じたことは一度もない。とっても味があって、くせの強い役も見事にこなす。今回の役は長髪にひげ、牛乳ビンの底のようなめがねをかけ、ぬぼーとしていて親しみがわく。本作品の中では一番のあたり役だったのは間違いのないところだろう。

何も小難しいことを考えないで見て欲しい。かなりおもしろい。それなりにちゃんと落ちもあったりして、モンソン監督の頭のよさが光る作品だと感じられた。ばかばかしく、どたばた劇が嫌いな人にはどうかと思うが、笑いを求めるならば、すすめられる作品である。

BY TAKA(11月13日)


800 Balas /800発


監督:Alex de la Iglesia
出演:Sancho Gracia, Carmen Maura, Terele Pavez 他


マカロニウェスタンが全盛期であった頃に特殊技師として活躍していたフリアンも今はアルメリアにある、さびれた「テキサス・ハリウッド」なる場所で観光客相手にウェスタンショーを演じるただの頑固おやじになりさがっている。
撮影中に自分のミスによって実の息子を死なせてしまった彼は、妻からも嫁からも見捨てられ、新しい時代の波に乗れなかった仲間と共に過去の栄光をよりどころに生きている。そんなフリアンのところにひょんなことから生前の父の写真を見つけた孫のカルロスが家を飛び出したずねてくる。
一方、決してフリアンを許そうとしない嫁のラウラは大規模不動産開発会社の社長として、フリアンの唯一のよりどころである「テキサス・ハリウッド」の地所を買収、新たなテーマパーク開発に乗り出そうとする。それを阻止せんがためにフリアンが断行した強攻策、自らの人生をかけた戦いが今ここに始まる。。。

アレックス・デ・ラ・イグレシアの一風変わった新作は「マルミタコ・ウェスタン」。
1960年代、70年代に一世を風靡し、クリント・イーストウッド、ジュリアーノ・ジェンマ、フランコ・ネロなどをスターに仕立て上げたウェスタン映画。アメリカの西部開拓劇がイタリアの手によって世に出され、マカロニウェスタンと呼ばれたことなど今では記憶の底に埋もれてしまっている。さらにはそのロケ地がスペイン、アルメリアであったことなど思い出されることもない。とはいえ、ウェスタン映画全盛期には多くのスペイン人がそれにかかわり、縁の下の力持ちとして活躍したことも事実である。その事実がいかにも存在しなかったかのように世の中がうつろっていく中、決してスポットを浴びることがなかった彼らに対するオマージュとして制作されたのが本作品。上記の「マルミタコ・ウェスタン」というのはビルバオ出身の監督が遊び心でつけたマカロニウェスタンとは一線を画すという意味でのスペイン版(というかアレックス・デ・ラ・イグレシア風)ウェスタンを指す。(ちなみに「マルミタコ」とは監督の出身バスク地方の料理で、マグロの野菜トマトソース煮であると思ってもらえればよい。)監督の説明によれば、マルミタコはとてもシンプルな料理だがとても料理することが難しく、それは西部劇と同様である、のだとか。
確かにTVの「洋画劇場」でしか見る機会のなかったウェスタンは、いかにもシンプルな筋書きで、最後には弱気を助ける主人公のピストルが悪玉を打ち抜き、ポンチョをなびかせ馬にのって去っていく、というシーンがお決まりだったと記憶している。ラストシーンを華々しく、雄雄しく、物悲しく飾り、観客のテンションを最高潮にもっていくためには、それ以前の用意が周到になされてなくてはならなかった。本作品は「ウェスタン」とはいってもそのものではない。「ウェスタン」を今にに生きる人々が「何をいまさら」とばかにする人たちに不器用にも戦いを挑んでいく、時代遅れがかっこいい物語なのである。

主人公となるフリアンはサンチョ・グラシア、御年65歳。白髪交じりで日焼けが染み付き顔の皺が年輪を感じさせるベテラン俳優。実際に若い頃にマカロニウェスタンに参加し、その現場をリアルタイムで生きた経験をもつ主人公そのものである。良き時代とその後の苦難の時代両方を知る貴重な存在であり、本作品には欠かすことのできない人物であったことは同監督自らが明かす。
そしてフリアンの対抗馬となるのが前作「コムニダー」で彼女そのものという演技を披露したカルメン・マウラ。また、妻ロシオはやはり前作でマトリックス並に屋根を飛んだいじわるばばぁを演じたテレレ・パベス。素顔からして苦虫をかみつぶしたような彼女の表情は性格がひんまがった役をやらしたら天下一品。それ以外の役どころはまわってこないほどである。TVのホームドラマでも頑固ばばぁとして存在感は抜群。
その他大勢の脇役はほとんどがアレックス・デ・ラ・イグレシア作品に常連として顔を出す人ばかり。
特別出演としては、カルメン・マウラと共に土地買収の裏工作をする人物にエウセビオ・ポンセラがクレジットされている。この人ほどこの監督の毛色と会わない俳優はないだろう、と思ったのだがどうして、どうして。異質なものは時として触媒として予想以上の結果を生み出すのに役立つ。
そして今回いつもと違うのはなんと子供が登場してるところである。同監督は子供の出ている映画は嫌いだ、と言い切るのだが、今回はどうしても必要だったから登場させたとのこと。どうしようもないような現実が子供の目には新鮮に映るということがエレメントとして必要不可欠であったわけだ。カルロス役のルイス・カストロは映画初出演とはいえ、アレックス・デ・ラ・イグレシアの源流を汲むことのできる素質を十分にもっていると見えた。

個人的に以前はそれほど好きな監督ではなかったのだが、「Muerto de risa」あたりからとても興味を持ってみるようになった。どたばた劇がうすっぺらなものでなく、腹にずん、とくるようなところがいいらしい。徹底的に偽善を排しているところも、人間をシニカルに見ているところも、スペイン映画界では彼の独断場だ。何かをやってくれるだろう、という期待に十分こたえてくれる数少ない監督ではないか、と思う。ほろりとする正義感、男臭さ、ヘビーな笑い、そういうものが欲しいときはぜひとも見て欲しい。特に時間があれば、レンタルビデオ屋にでもいって同監督の全作品を探して見ると良い。知らぬ間に彼の術中にはまってしまっていることに気付かされるだろう。

BY TAKA(10月31日)


Los lunes al sol / 月曜日にひなたぼっこ


監督:Fernando Leon de Aranoa
出演:Javier Bardem, Luis Tosar, Jose Angel Egido, Nieve De Medina 他


造船所を解雇されたサンタ、ホセ、リノ、アマドールは毎日することもなくリコのバルで酒を飲みくだをまいている。
独身のサンタは得意の話術で女をひっかけ暇つぶしをし、ホセは缶詰工場で働く妻の夜勤を送り出す。妻と子供2人を持つリノは何の特技もないまま職にありつくために面接を受けつづける。家に帰ることを嫌うアル中気味のアマドールはバルの洗面所の電気が手動で切れないと文句をたれる。
今日が何曜日だったかも思い出せない失業者たちは、何から手をつければいいのかもわからず、1日1日を無駄に過ごしていく。。。

脚本家として、監督として、奇麗事だけではない、目をそらしたくなる社会の現実というものをえぐり取り、大衆につきつけてきたフェルナンド・レオン監督。本作品で今年のサン・セバスティアン映画祭コンチャ・デ・オロ(最優秀作品賞)を受賞した。前作「Barrio」で見せた、自分の脆弱さを見せるまいと肩肘をはって攻撃をしかけてきた激しさ、とげとげしさが姿を消した。人間の仮面を無理に剥ぎ取ることを避け、にじみ出る感情を掬い取り、見る者との同化を図ることに成功したといえる。実に自然な会話は力を加えることなく自らが進んで流れを作り出している。

男たちは何かきっかけとなる出来事がない限り毎日毎日を無為に過ごすことにならされてしまい、不平不満がさらにつのっていき、意固地になり卑屈になっていく。
サンタが8千ペセタという罰金のために何度も裁判所への呼び出しを食らうが、自分にとっては「たった8千ペセタ」ではなく「百万ペセタにも一億ペセタにも匹敵する」のだとひたすら支払いを拒む。また、一夜の子守りを引き受けたときに「ありときりぎりす」の本を読んであげるが、そんな奇麗事があるもんか、うそっぱちだ、と憤る。
ホセは銀行で借金を申し込むが、失業者であること妻の仕事が臨時雇いであることで銀行の色よい返事がもらえないと怒り狂う。そして夫婦の関係が少しずつずれていく。

仕事を積極的に探す風でもなく、新たな勉強を始めるわけでもなく、かといって仕事があったときは良かったと懐古にひたるわけでもなく、ひたすら集まり酒を飲みその場限りの話を続ける。誰かが、とめてくれなければ、なにか特別なことがおきなければ、永遠に同じ時がまわりつづけるかのように。しかし、あるとき、そのきっかけが生まれる。サンタがアマドールの寂しい家庭をまのあたりにしたことであり、その死であった。生ける屍となっていた失業者たちの目を覚まさせるに十分な衝撃となる隠された事実が存在したのだ。。エゴイズムに蝕まれ、他人を振り返る余裕を失くしていた彼らに人間らしい思いやりの感情が戻ってくる。

今回サンタの役を演じているのが、久しぶりの母国での作品となるハビエル・バルデム。「Antes que anochezca」「Pasos de baile (The Dancer Upstairs)」と2作つづけて英語の作品だったが、やっぱりスペイン語での演技のほうがずっといい。さらに雰囲気を出すためにちょっとばかり額をそりあげ、あごひげをのばしたことで労働者風になってしまった。その上かなり体重を増やしたこともうかがえる。本人曰く、役のために太ったのではなく、タバコをやめたら10キロ勝手に増えてしまったのだ、そうだが。 ホセ役のルイス・トサールはわりと今までの出演作では強面の、すぐ切れてしまうような役回りが多かったが、「Flores de otro mundo」では田舎の朴訥とした役を演じていた。今回もやっぱり、不完全燃焼したやり場のない怒りを溜め込み1度は切れてしまうような中年男。

この作品を見ていると、ちょっとした田舎のほうのバルでよく見るような光景なんじゃないだろうか、と思い始めた。通りすがりの者にはいい中年のおっさんが昼間っから酒をくらって、ドミノに興じている姿を「いいご身分で」としか映らなかったが、もしかしたらこの映画と同じように職を失い、これくらいしかすることがないのかも、とおもいあたった。全く毎日酒ばっかり飲んでぐうたらぐうたらしてないで、仕事探すなりなんなり前向きに行動しなよ、といいたいところだったが、彼らなりに光を求めて出口を探し、外に出たときに具体的に何をすればいいのかを思い描いているのではないだろうか、そんな気がした。

ガリシアの海、港湾都市を前に淡い光の中で風に吹かれながら、岩場で、定期船の上でひなたぼっこをする彼らに日曜日も月曜日もない。誰にもじゃまされず平日の昼間に冬の太陽を満喫することができるのである。それは決して南の海、空ではありえない色と陽ざし。物悲しさを漂わせる北の一風景に溶け込ませた描写は特筆すべきものがある。暗く、重苦しいテーマではあるものの、どんよりした気持ちで席をたつことのないような結末を選択したことがこの作品の質を高めたといえる。ところどころに挿入される音楽も心地よい気分へと導いてくれ、手をとりあってこれからの人生歩んでいこうや、と言いたくなった。

BY TAKA(9月29日)


El viaje de Carol / キャロルの旅


監督:Imanol Uribe
出演:Clara Lago, Juan Jose Ballesta, Alvaro De Luna, Rosa Maria Sarda 他


スペイン市民戦争の陰が押し寄せてきた1938年、キャロルはアメリカ人であり、国際軍のパイロットである父と別れ、ニューヨークから母と共に母の生まれ故郷に戻ってきた。
自由、気ままで田舎の村では異端視されるキャロルも母方の祖父や、母の友人であり教師でもあったマルハの理解を得、ガキ大将トミチェとも友情をあたためながら、人生とは一筋縄ではいかないのだということを学んでいく。。。

11歳の女の子が、アメリカとは全く違った閉鎖的で形式ばったスペインでの小村での生活にとまどいながらも、自分自身を見失うことなく成長していく姿を軸に市民戦争時の田舎での生活状況を子供の視点を通して語るイマノル・ウリベ監督の新作。
ウリベ監督といえば、スペインの血なまぐさい側面を題材に無骨で切れ味鋭い映像を得意とするイメージが強いが、今回はとても繊細かつ柔らかな色彩が濃い。失敗作と評される前作「plenilunio」の後、なかなかこれといった脚本に出会わなかった中、原作の著者アンヘル・ガルシア・ロルダンが自著を脚本化し持ち込んだのがメガホンを取るきっかけとなったという。監督自身、スペインの近現代史の中で忘れてはならない市民戦争という国体を覆すような出来事が風化されないよう、スペイン国民特に若い層に訴えかけたかった、訴えかけるべきである、と常々感じていたと話す。当時の子供の見たスペインという物語となっているが、実は大人が感じていた戸惑い、世の中の不条理等を子供を媒体として語らせたのだという。
婚約者を捨てアメリカ人と結婚しニューヨークへ旅立っていった奔放な母、その元婚約者と後に結婚した厳格な妹、頑固でありながら広い心をもちキャロルを包み込む祖父、キャロルの淡い恋の相手であるトミチェやその仲間たち、進歩的な考え方で子供たちを導くマルハ等、魅力的な人物の描き方をしている。

キャロル役のクララ・ラゴは映画初出演。TVの学園モノ連ドラにちょい役で出演していたときには、「えらくがんばって演技してるな」という印象が強かったのだけど、今回はとっても自然でかわいらしい。トミチェ役のフアンホ・バジェスタは「El Bola」でゴヤ新人賞を獲得した少年で映画にもまたTVにも(上記の連ドラにも出演している)顔を出す芸達者な15歳。
祖父役のアルバロ・デ・ルナは非の打ち所のない演技を披露。どう説明しても語りきれないほど素晴らしい。とにかく見て感じて欲しい。

実際にこれほどまでの作品とは思わなかった。「また、市民戦争もの?」とあまり興味をひかれることなくひまつぶし感覚で映画館に足を向けたのだが、「申し訳ありません」というしかない。実に「感動」という言葉がぴったりな作品なのである。もともと涙腺が弱いせいもあるのだが、涙ボロボロ、鼻ズルズル状態となってしまって、映画館を出てから恥ずかしかったの何のって。おそらく頭で理解するセリフではなく、映像や音楽が五感を刺激し、体全体で感じていたのではないだろうか、と思う。素直にウリベ監督に拍手を送りたい気分だ。

BY TAKA(9月20日)


La caja 507 / 貸し金庫の番号は507


監督:Enrique Urbiz
出演:Antonio Resines, Jose Coronado, Goya Toledo 他


コスタ・デル・ソル(太陽海岸)のとある銀行の支店長、モデスト・パルドは土曜日の閉店間際に強盗集団に押し入られ、貸し金庫のある地下室へ閉じ込められる。薬で眠らされ、目を覚ました時には貸し金庫は無残にも破壊され、荒らされた後であった。しかしながら、偶然にも残骸の中から7年前、娘の命をうばった山火事の真相を知る手がかりを発見する。 一方、地元警察署の元署長でありながら悪の手先となりさがったラファエルは金庫荒らしの一報に耳を疑う。貸し金庫の中には彼の命綱ともいえる書類が預けてあったのだ。この書類が公に出ることは彼の死を意味する。 モデストは真相を暴くために調査を始め、ラファエルは自らの窮地を救うために強盗集団の後を追う。。。

最近の傾向としてサスペンス系の謎解きを題材にした映画が急増してきているように思う。スペイン映画界では人間ドラマに主眼をおいたものが根強い人気を誇っていたのだが、スペイン産サスペンスでも受け入れられるのだということがアメナバル監督の活躍によって証明され、徐々に作り手と受け手の許容範囲が広がってきたのだろう。ただし、日本におけるTVでの2時間サスペンス放映開始当初をおもいだしていただけばよいかと思うが、ソフィスティケートされた作品がなかなか出てきていない。どれも題材に無理があったり、つめが甘かったり、映画としての質(TVドラマならOKだとしても)はお世辞にも高いとはいえない。 とはいえ、先日公開された「El Alquimista impaciente」(パトリシア・フェレイラ監督)は非常に質の高いものであった。ロレンソ・シルバ作の同名の小説を映画化したものであったのだが、小説自体が非常に良くねられていたこと、そのよさを素直に映像に反映させていたことが高い評価につながった。一方、今回の作品には原作がない。エンリケ・ウルビス監督はそれをおぎなうかのごとく、舞台となったコスタ・デル・ソル周辺で実際に起こった事件を丹念に新聞記事で追い、肉付けすることに成功した。

このコスタ・デル・ソルという場所、表向きはスペインだけでなく欧州各国からのツーリスト、引退し余生をすごしにやってきたお金持ちの優雅な別荘などがあり、温暖な気候、青い海と白い砂が人々にはまばゆいものにうつる。しかし、人の集まるところには金も集まり、それにむらがるハイエナたちがいる。中国マフィアやロシアマフィアで牛耳られている裏の世界があることも事実である。政治家、警察の汚職が多いのもこの地域である。サウジの王様が何百億ユーロをかけてバケーションを過ごすマルベージャはサッカーチーム、アトレティコ・マドリードのヘスス・ヒル会長が市長であり、同時にここの裁判所はスペイン一「移動願い」が多いというところでもある。裁判官が事件の捜査、裁判を行おうとしても、有形無形の圧力がかかり正常な司法手続きが不可能になり、それに嫌気がさしてしまうからだ、と言われる。もちろん、本作品もそうい陰の部分がふんだんにとりいれられているため、苦虫を噛みつぶしている御仁が多数いると思われる。

物語の筋はさておき(あまりふれると、見たときのおもしろさが半減するので)、出演者はというと、出演作を挙げればきりがないアントニオ・レシネスと映画、ドラマ、CMとコンスタントに人々の前に顔をさらすホセ・コロナド。そして、「アモーレス・ペロス」での演技が非常に高い評価を受けたゴジャ・トレド。アントニオ・レシネスは相変わらず安定しているんだけど、セリフのないときに体からたちのぼるような感情がとてもよい。彼のたるんだ腹と背脂ののった幅広の肩は悲壮さと力強さがあいまっている。あまり見たい体じゃないが、現実味があってよろしい。(鍛え上げた体というのは妙に空々しいものがある)そして、ホセ・コロナドは私の嫌いな俳優の一人であった。なぜか、「おれって結構いけてるだろ?」という中年のうぬぼれが嫌みったらしくみえてしまうからなのだ。特にヨーグルトのCMが大嫌い。どうも暑苦しい。(スペインのCMを見ることのできない方々ごめんなさい。どんなもんだかわからないですね。)だが、今回、結構私の中での見方が変わった。悪くないんじゃない?と。脂ぎってる顔をたるませ、ニタニタした表情がなく、すっきりと角刈りにしてる。硬派にしようと思えばできるんだ、と再認識。

舞台設定や人物の配し方などなかなかおもしろいし、最後まであきさせることないテンポもよいが、いかんせん、バイオレンスの部分が強調されすぎているきらいがある。陰の部分はあくまでも甘えがあってはいけない、ということをいいたかったのか。 家族を失う、もしくは失いそうになったときに、人間はこうも感情を失い無機質になっていくものなのか、と喧騒感が静まり陽があせていく晩夏の海岸をみるような寂しさも感じさせられる作品であった。

BY TAKA(9月10日)


Smoking Room / スモーキング・ルーム


監督:Julio Wallovits, Roger Gual
出演:Eduard Fernandez, Chete Lera, Antonio Dechant, Juan Diego, Manuel Moron 他


あるアメリカの会社のスペイン支店。トップが替わり社内全面禁煙の規則がたてられたがだまっていられないのがスモーカーたち。そのうちの1人ラミレスが物置小屋同然の一室を喫煙室にするよう会社に陳情するための署名を集め始める。
当初は簡単に事がなるように見えていたのだが、いざ、署名をする段階になってみるとなんやかんやと言い訳をつけてサインを渋る者が続出。ラミレスの必死の説得にも逃げ腰となる仲間たちには、どうも何か隠していることがあるようだ。
なぜ、サインを渋るのだ、となかば意固地になって奔走するラミレスの行く末は。。。

老若男女を問わず喫煙率の非常に高いスペイン。禁煙マークがあろうとなかろうとおかまいなく、ところかまわず吸いまくる、いわば喫煙マナーというのが全くなっていないお国柄でも、昨今は一応喫煙の及ぼす害というのを知らせるキャンペーンを張ったり、禁煙のための治療を目的としたクリニックができたりしている。
ある自治州がたばこ会社に対して、たばこが原因による疾病にかかった医療費を返せと損害賠償を求める訴訟を起こしたことも記憶に新しい。また一般的な禁煙普及度に関していえば、遅らばせながらもノースモーキングエリアを持つカフェテリアなどもでてきている。
しかし、根本的に他人の迷惑などあまり顧みない、そして義務を果たさなくても権利主張だけはいっちょまえな国民性の前に禁煙はもとより分煙を求めるのも難しいというもの。たばこを吸いたいものがなぜ吸ってはいけないのか、われわれには吸う権利がある、と高言してはばからない人たちなのだ。
そういう人たちが“アメリカ”という国の企業の支店で働いているというだけで、その価値観を踏みにじられ、大国風の規則を押し付けられる。抗議したいけれどもお上は怖い。でも、だまってそれに従うのもしゃくにさわる。
このような国民性を良く知った上で喫煙、禁煙を軸にしたごくごく普通の人たちの日常に起こり得る問題を皮肉をこめて自嘲気味に作品化したのがこの「Smoking Room」。 先日のマラガのスペイン映画際に出品され、審査員特別賞、最優秀脚本賞、そして全出演男優に対して優秀賞を受賞し、注目された作品でもある。

まず、しょっぱなからなんだか分からない会話で始まるのだが、2人の会話とはいっても一方が好きなだけ喋りまくる。その次の場面でも、その次の場面でも会話者が変わってもどちらか一方だけがしゃべり、もう一方は聞き役となっている。スペイン人の会話は一方通行というのはよくあるが、片方だけが喋りまくるということはまれなことであるからして、この手法自体かなり観客の興味を引く。その上、カメラアングルがかなり特殊である。絶対に顔全体を写すことがない。どこかが切れている。顔の半分だけだったり、目だけ、口だけだったりと。そして、その会話の内容が実にもっともなのである。理にかなっているというのではなく、まさにそこここで交わされる不満やたわいのない噂話、家庭内の問題などに嘘が感じられないのである。作られたものであるにもかかわらず、そこに現実がみえるのである。
もちろん、その会話の中では日本語には存在しないような汚い言葉が連発され、ますますもって現実味をおびており、面白い。
サインをすることで昇進話がだめになるかも、これを機会にたばこをやめられるかも、もしかして、なにかこの署名リストには罠がかくされているのでは。。。そういえば、何年も机を並べているけど、奴のことは何一つ知らないんだよな、本当は誰も何も知りやしない、と喧喧諤諤、一人一人勝手に想像をはたらかせ、臆病になっていく。これもまた、非常に人間的。

特に私の気に入った場面は新しいアメリカ人支店長のことについて言及している2人のおっさん社員の会話。
「黒いのか?」「うん、黒い」「見たのか?ほんとに黒いのか?」「黒い、黒い」「いや、別に黒人を差別しているわけじゃないんだ。いやでも。。。そうか。。。」
といって戸惑い半分、興味半分、そしてちょっとした差別感(蔑視とまではいくまい)をこそこそと内緒話としてつづっているところ。これって表向きには存在しない会話だろうとおもうのだが、映画の中で堂々と話してしまうのがいい。異質なものに対する拒否反応というのが実に素直なのだ。日本だってきっとそうだ。新社長が女だったとか若かったというだけでも話題になるのと同じだ。女だったら別に話題にしてもおかしくないが、(女性軽視といわれたらそれはそれでしょうがないが)黒人ということだけで、声をひそめなくてはいけないという意識をもっているスペイン人を描いたところがなかなかだな、と思ったのである。
スペインにはどうも差別用語というものが存在しないらしく、堂々と耳を覆いたくなるような言葉を吐き捨てる。差別することに対する抵抗が薄いらしい。これは往々にして自分が差別をしていることに気付かないことを意味する。そういう意味において、かれらは善良な一般的なスペイン人であったというわけである。

この世の中から、特にスペインからたばこがなくなるということはないだろうが、世界的な傾向として喫煙場所が減っていくことは十分考えられること、である。そうすれば、喫煙者の肩身が狭くなっていくのは自明の理。どこまでそれが進んでいくのか。でも、そんなことはくそ食らえだ、というのが本作品のメッセージなのだろう。たばこを吸うことが悪いことだと居心地が悪くなる前にちょっとばかり世間に反逆の思想をまいてみようか、というところであろうか。ちょっと痛いところをつかれた気がしてならない。

監督、脚本を手がけたのはアルゼンチン出身のフリオ・バロビッツとカタルーニャ出身のルジェ・グアル。前者はCM畑の出身、後者はグラフィック・デザイナーと映像関係者とはいえ、映画界の出身ではない。それゆえか、既存の感覚にしばられることなく、斬新な作品を創り上げることが可能だったのか。
予算がなかったことで俳優は手弁当状態だったという。主役のエドゥアール・フェルナンデスを筆頭に脚本を気に入った人たちが集まりこの作品に登場したということだ。出演した彼らも何か言いたいことがあったのだろうか。

最近の作品の中では傑作に属するのでは、と個人的には非常に気に入った。こういう作品もたまには出てこないと、人々のガス抜きができないのではないだろうか、と。。。

BY TAKA(6月15日)


Fumata Blanca / フマタ・ブランカ


監督:Miquil Garcia Borda
出演:Adria Collada, Jose Sacristan, Cayetana Guillen Cuervo, Hector Alterio 他


司祭のマイケルは、ローマのお偉方の1人よりバルセロナのジョバネラ枢機卿を探るよう内密の指令を受ける。何が起こっても決して他言はせず、警察への援助は一切あおぐな、というものである。
一方、バルセロナではカトリックを中心とする宗教会議が催され、その最中にジョバネラ枢機卿が忽然と姿を消す。ローマ法王逝去後の法王候補者の1人であるジョバネラと彼がつかんでいたと思われる内部機密の行方を追わなければならなくなったマイケルは、10年前に関係を絶った警察官の父親ルイスに協力を求める。。。

まず最初に。大きな期待をもってはいけない。
だいたい、この手のサスペンスはスペイン映画市場であまり成熟していない。
最近になって好んで創られるようにはなっているが、ハリウッドの2番せんじ、3番せんじの域を出ていない作品がほとんどである。本作品もご多分に漏れず最初のほうで大体誰が黒幕なのかということが推察できてしまう。
言っておくが、別に監督、脚本自体が悪いといっているのではない。(別に良いってわけでもないが)今までにサスペンス映画(ドラマ)を見すぎてしまっているために妥当な線をたどっていけばいやでも結論に達してしまうというものなのだ。ただ、その結論に達するまでの紆余曲折が興味深いものであれば概ね、よくできました、の花丸を進呈することができるわけだ。

ここでは、一応サスペンスとされる作品であるので、ねたばれするようなことは避けねばなるまい。
第1に、舞台はバルセロナで、悪魔が巣食う場所は、一番お似合いのカトリックの総本山バチカン。
第2に、主人公が司祭で、その父親が警察官、2人の邪魔をしつつ協力者となるのが女性新聞記者。そして、大事な生き証人の女性が1人。もちろん宗教の世界同様、世俗にも魑魅魍魎がうようよ。
人物配置は規定路線を走っているようで、事件解決に奔走する主人公と父親の親子関係の修復をからめるところも、全くもってお定まりのコースである。これがハリウッド映画であれば、主人公と女性記者、もしくはもう1人の女性に愛が芽生えて。。。となるのだろうが、今回主人公はなんたって神に仕える身であるためそれがない。アメリカだったらそんなのお構いなし(まぁ、カトリックじゃなくってプロテスタントだったらオッケー?)でサービスカットなどが挿入されるのだろうが、本作品では一切その手の場面はない。(甘ったるい恋愛の場面がないことは大いに評価できる、と個人的には思う。)
第3に、事件を追う3人に迫る謎の(?)暗殺者というのがいる。が、笑っちゃうほど悪役そのものの顔をしていて殺気が感じられないために、どきどきさせてくれない。もちろん、危険から逃れる偶然性にしてもねた切れした漫才のようである。
ということから、緻密な伏線というのは存在しない、といってよい。想像を絶することはありえない。もちろん、カトリックの内情を暴露するなどという大それた野望など全くなく、その辺の一企業に置き換えてもなんら問題のない設定である。
監督自身も、別にカトリックを揶揄するとか現在の宗教界の問題提起をするという意図は全くない、と前置きした上で、本作品をエンターテイメントとして見てほしい、ということを語る。
一般企業を舞台にするよりは宗教界を舞台にしたほうが、そりゃ一般人の興味をそそる。何が出てきたって不思議がないし、また、何か目新しい事実(たとえフィクションであっても)が暴露されるんじゃなかろうか、と期待してしまう。監督にしても、脚本家にしてもそれに答える義務があるはずなのだが、どうも借り物の法衣はサイズが合わなかったらしい。

この作品は俳優でもある、ミケル・ガルシア・ボルダの2作目にあたる。1作目の「Todo me pasa a mi」の時は予算がなくて友人一同を集めて作ってみた、というかんじのかわらいらしい、それでいて肩のこらないコメディであった。
今回は全く違う分野に手をだしたものの、まだ手探りという状態から抜け出せていないというところだろう。前作と圧倒的に変わったのは、知名度のある俳優をクレジットに並べることができた、ということか。
ジョバネラ枢機卿役にはエクトル・アルテリオが、警察官ルイス役には舞台俳優、ホセ・サクリスタンを配した。主人公のマイケル司祭には最近よくみかけるようになったアドリア・コジャダ、新聞記者にはカジェタナ・ギジェン・クエルボが出演。
なんといっても、やっぱり食えない聖職者の狸ぶりをいかんなく発揮しているエクトル・アルテリオが最高である。この年代の大ベテランスペイン人俳優の層が薄く、同朋(アルゼンチン)フェデリコ・ルッピと共に他をよせつけない強さがある。前作「El hijo de la novia」は地元アルゼンチンだけではなく、スペインでも大ヒット。米国アカデミー外国映画賞にノミネートされたこの作品でとってもステキな夫、かわいらしい父親を演じ、観客を涙させた。
カジェタナ・ギジェン・クエルボは大きな作品に出演することはまれだが、いつも色気不足が功を奏する不思議な女優である。スペインには珍しく“女”を強調しない(できない?)人なのだ。人物像があんまり練られていない、いってみればうわべばかりが強調された新聞記者役を彼女特有のからり、さっぱりで鑑賞に堪えうる人物に化けた。
ホセ・サクリスタンのあまり警察官には似合わない大げさな演技はあっさりしていて可もなく不可もなくのアドリア・コジャダとでプラスマイナスゼロに落ち着いた。

とまぁ、こんなかんじなのであるが、どうも花丸には程遠いようで、もっとがんぱりましょう、のはんこが関の山。どうして映画を撮りたいのか、どうして自分はこの作品を世に出したいのか、といったところが全く見えてこないために、冷めた目でスクリーンを見てしまったのだろうか。基本的に俳優としてのミケル・ガルシア・ボルダに興味を感じるだけに、監督として成功してほしいという気持ちもあるが、そのまま俳優業に徹したほうがいいのでは、という気もしてきた2作目であった。

BY TAKA(5月15日)


El embrujo de Shanghai / 上海の魅惑


監督:Fernando Trueba
出演:Fernando Tielve, Aida folch, Ariadna Gil, Antonio Resines, Eduard Fernandez, Fernando Fernan-Gomez, 他


市民戦争が終わりを告げ、フランコ独裁体制が固まってきた頃のバルセロナ。混沌とするこの街で、いずれもが戦争によって残された傷跡をひきずり、悲しみを癒すために彷徨い、欠けてしまった破片の一片を探し求める。。。
父親が戦争に行ったまま帰らぬ人となった少年ダニィ。官憲の手に落ちないようにと何年もの間洋服ダンスの奥に隠れていたキャプテン・ブライ。街一番の美人で映画館の切符売りをするアニータと結核を患う娘のスサーナは夫であり父親であるキムの帰りを待つ。 ある日、2人の住む屋敷にはキムの行方を知るというキムの仲間のフォルカットが転がり込んでくる。ダニィとスサーナはフォルカットが話してくれる、重要な任務を受けてキムが潜伏しているという上海に思いを馳せるようになり。。。

スペイン映画界2002年の超大作として大々的に発表されたフェルナンド・トゥルエバ監督の「El embrujo de Shanghai」。フアン・メルセの同名小説の映画化で、バルセロナに戦後の上海を再現、400人にものぼるアジア系エキストラを募集して制作された作品。もちろん、トゥルエバファミリー総出演、さらには昨年度のゴヤ最優秀男優賞を獲得したエドゥアール・フェルナンデス、「El espinazo del diablo」のフェルナンド・ティエルベ、「El Bola」で一昨年のゴヤ最優秀新人賞を獲得したフアン・ホセ・バジェスタを加え、ヒロインスサーナ役には映画初出演の15歳、アイーダ・フォルチが起用された。

物語は15歳の少年ダニィとスサーナが中心となって現実と想像の世界を行き来しながら進んでいく。
現実の世界では2人の奇妙な上下関係に始まり、淡い恋心がからみ、大人の女性に対する羨望や相反する侮蔑の感情が交錯する。フォルカットの話す上海の風景は2人の中で美しくそれでいて謎めいた空想の世界へと発展していく。

さて、大作といわれるにふさわしいキャストと話の展開なのだが、なぜか、欲求不満の残る作品だ。どの俳優をとってもみても強烈な個性を発しつつ、非のうちどころのない完璧な人物像を創り上げている。また、それぞれが、お互いに寄り添いあうことで100%どころか200%のできとなっているのだ。しかし、しかしだ。はっきりいって、つまらない。何がつまらないのか。きっと、脚本だ。原作の魅力をそのままに映像化するのには困難がつきまとうものだ。実際、この原作を読んだわけではないのだが、読者が行間に見出すセンティメンタルな部分が欠落してしまったのではないか、という気がした。
せっかくの小説が映画化されたことで死んでしまった、という例にビセンテ・アランダ監督の「Pasion turca」を挙げた人がいたが、この作品にも全く同じことが言えるともコメントしている。本当にこの作品を楽しみたいのなら、原作を読んでみるべきだ、と。

当初、この映画化はビクトル・エリセがメガホンを取る予定になっていた。それが、途中で制作との意見の食い違いから監督の首のすげ替えがおこなわれた。そして、白羽の矢がたったのがトゥルエバ監督で、脚本も自ら担当した。キャプテン・ブライ役のフェルナンド・フェルナン・ゴメスを除いて配役もすべて変更とあいなった。
トゥルエバファミリーの筆頭といえば、アントニオ・レシネス。今回は白黒の映像の中でキム役を演じ、ハンフリー・ボガードを気取っていた。そして、アニータ役のアリアナ・ヒル。彼女は想像の世界での中国人マダム・チェンをも演じているが、なんとも妖艶である。以前、インタビューで自らの顔は3大陸の顔を併せ持っている、と話していたことがあるが、まさに、アジアの顔が全面に強調されたチャイナドレスの似合うマダムとなっているのだ。彼女曰く、目元はアジア、鼻はヨーロッパ、口元(唇)はアフリカなのだと。もちろん、出演場面は少ないが、ホルヘ・サンスもしっかり顔を出している。
映画初出演となったアイーダ・フォルチはフランス人モデル&女優のレティシア・カスタに良く似た15歳とは思えない色っぽさを撒き散らす。同い年のフェルナンド・ティエルベとのキスシーンの撮影には50回以上NGがでたというかわいらしい話題も花を添えている。
フォルカットを演じるエドゥワール・フェルナンデスは昨年だけで、「La voz de su ama」「Son de mar」「Fausto 5.0」とどれもとうてい忘れることなどできないほど強烈な役を演じており、出演作目白押しの注目度ナンバーワンともいえる男優である。

いってみれば、スペインの中でもベテランに位置する監督に気心もしれた円熟味のでた俳優と新顔との共演、映像の美しさを併せ持った作品であるにもかかわらず、結局は失敗作との感が強いのはすべてに欲張りすぎたことが原因だったのか。それとも中途半端に原作に引きずられてしまったからなのか。やっぱり、原作を読んでみるしかないのだろうか。

BY TAKA(5月5日)


Hable con ella / 彼女と話してごらん


監督:Pedro Almodovar
出演:Javier Camara, Dario Grandinetti, Leonor Watling, Rosario Flores, Geraldine Chaplin 他


「Todo sobre mi madre (All about my mother)」の世界的ヒットからはや2年。ペドロ・アルモドバル監督が世に送り出す第14作目は、珍しく男性を主役に据え、アルモドバルお気に入りのきらびやかな女優陣を一切排した、しっとりとした趣のある作品。

交通事故が原因で植物人間となってしまったバレリーナ、アリシアの世話を引き受けている看護士のベニグノ、闘牛に引っかけられ大怪我を負いやはり植物人間となってしまった女性闘牛士リディアのそばにいる新聞記者くずれのマルコ、同じような境遇にある2人がふとしたきっかけから友情を育んでいく。
アリシアにプラトニックな愛情を寄せるベニグノは、植物状態にあっても、何の反応がなくても自分の声がアリシアに届いていると信じる。非番の日にはアリシアが好きだったフィルモテカに通い、各国の映画を見ては彼女への報告を怠らない。その反対にリディアが元気であったときに何を自分に伝えたかったのか、今となっては聞くすべもなく、また自分の気持ちを理解してくれることもない、と空虚感にさいなまされるマルコ。そんなときにベニグノは言う。「Hable con ella (彼女と話なさい)」。
ある日、マルコはリディアが他の男性と生きていく決心をしていたことを知り、そばにいることの無意味さからマドリードを離れていく。しかし、旅先でリディアのアリシアのそしてベニグノの異変を知り急いで戻ってきてみると。。。

アルモドバル作品というのは、一目見てそれと知れる作品であり、“chicas de Almodovar(アルモドバル・ガール)”と呼ばれるお気に入り女優で飾りたてることが ほとんどであった。アントニオ・バンデラスがハリウッドへ行ってしまってから男性はいつも脇役、最近では唯一「Carne Tremula(邦題:ライブ・フレッシュ)」でハビエル・バルデムが主役を張ったくらいである。
それを考えるとずいぶんと大きな方向転換を図ったといえる。ベニグノ役のハビエル・カマラは名前で観客を呼べるほど大物でもなく、アイドル路線で売ろうにもその要素は全くなく、主役を引き立てるにはもってこいの垢抜けない青年(?)なのだ。あの大ヒット作「Torrente」ではサンティアゴ・セグーラのどんくさい子分役、「Cuarteto de Habana」では美しい婚約者を寝取られる役、「Lucia y Sexo」でも主役の陰で損な役回りをしていた。何が幸いするかわからない。ベニグノは人がうらやむような美男子、好男子ではいかんのだ。友達もいず、自分の世界に没頭しちゃうような小太りでさえないどこにでもいそうな人なのだから。
マルコ役のダリオ・グランディネッティにしてもそうだ。決して映画の世界で有名な俳優ではない。どこかでみたことがあるんだけど、でも何に出ていたか思い出せない、その程度の人である。
そして、寝たきりの2人の美女はレオノール・ワトリングとロサリオ・フローレス。両人ともいくつかの場面をのぞけば、動きもセリフも全くない状態が続く。レオノールはセリフもないまま寝たきり状態を“演ずる”ことがいかに難しかったかを、女優であるよりも前にロック歌手であることを強調するロサリオ(ちなみに伝説的歌手となっている故ローラ・フローレスの娘であり、故アントニオ・フローレスの妹である)は「私は女闘牛士じゃないわよ」とこの役のオファーに驚いたことを後に語っているが、セリフがあろうとなかろうとその存在が大きく作品を左右している。
他の監督の手垢がついておらず無色に近い両男優がアルモドバルとの熾烈な戦いを避け、女性2人が緩衝材となってうまく折り合い、アルモドバル色を変化させてしまった、という印象が強い。実際、「アルモドバルを見に行くのだ」と意気込んできた人には物足りないであろう。「これぞ、アルモドバル流」という押しの強さが減り、しなやかさ、やわらかさが前面に出ているのだから。得意とするその辺のおばさん毒舌会話が激減したことをみても、アルモドバルが自然と転機を迎えていると考えてもよさそうだ。

作品の大筋とは別に、数分間の白黒無声映画が挿入されている。この映画はベニグノを変化させる大きな要因となるのだが、非常に興味深い。「El amante menguante」と題した、女性科学者の発明した新薬を試したその恋人が日に日に小さくなっていき、ついには親指姫のようになってしまう、というもの。この女性科学者役を現在飛ぶ鳥を落とす勢いのパス・ベガが、恋人をフェレ・マルティネスが演じている。滑稽さ、物悲しさ、永遠の愛がつまった、胸がキュンとなるようなそんな作品なのだ。(無声映画時代にこんな過激映像があるわけない、というところはアルモドバル的なんだけど)

個人的にはこういった潤いのある地味な(アルモドバルにしては)作品が好きである。ただ、やはり派手なことが好きなアルモドバル、女性に“囲まれていること”が大好きなアルモドバル、どうしても華が不足すると思ったのか、ほんの一言、二言のチョイ役に有名どころの俳優さんを並べたてている(もしかして、最近のはやり?Special thanksってことで)。クレジットには名前があがってないのだが、セシリア・ロス、マリサ・パレデスの両名も大勢の観客の中の1人でワンカットだけ出演。まるで、卒業生が恩師を訪ねるような余裕の雰囲気。また、舞台の場面を挿入するのが「お約束」のようになっているが、今回もPina Bauschの協力によって前衛舞踊の舞台で幕を開ける。

本作品、どちらかといえば、一般の反応は鈍い。批評家からの点数も高いものではない。前作のように世界的作品とはならないであろう。とはいえ、昔からのアルモドバル信奉者も、前作を見てスペイン映画を誤解した人も、次回作へのつなぎとして見ておいて損はない作品だと思う。アルモドバルがオスカーを手にしたことで一時代を終え、新しい世紀をまた別の角度から切り取って映像化するであろうことを期待する。

BY TAKA(3月25日)


Piedras / ピエドラス


監督:Ramon Salazar
出演:Antonia San Juan, Najwa Nimri, Angela Molina, Vicky Pen~a, Monica Cervera 他


人生の転換期を迎えた、年代も職業も何のかかわりもない5人の女性がそれぞれにもつ“足”や“靴”への執着、コンプレックスを絡めて、スパイラルのような人間関係を織りなしていく、ラモン・サラサール監督の長編第1作。
数年前に同監督が発表した短編「Hongo(オンゴ)」が獲得した数々の賞は47にものぼり、本作品もスペインから唯一ベルリン映画祭に出品され、好評を博した。監督自身が明かしているように「マグノリア」の影響を強く受けている作品でもある。

いつものように簡単なあらすじだけを、と思ったのだが、今回登場人物が多く、筋を追うのに精一杯になってしまう可能性もあることから、以下に主要登場人物5人のアウトラインとそれぞれに関係する周囲の人物像を簡単に記すことにした。「スペイン映画見慣れてるから、俳優さんたちもみんな一発で判別できるわよ〜」という方は読み飛ばしてくださいな。

偏平足を気にするアデラ(アントニア・サンフアン)は毎日黄色いスクーターに乗って、郊外にある街道沿いのクラブへ出勤する。そのアデラにはアニータ(モニカ・セルベラ)という他の子よりも“知恵の発達がとってもゆっくりな”子供がいる。犬の散歩にはかかさず黄色い運動靴を履いてでかける。
ハイヒールに執着を持つレイレ(ナジュワ・ニムリ)は毎夜ディスコで踊るために勤務先の高級ブティックから靴を盗み続ける。
マリカルメン(ビッキー・ペニャ)は小学生の息子と死んだだんなの連れ子だった薬中毒のダニエラ(ローラ・ドゥエニャス)を養うためにだんなの職業であったタクシーの運転手をしている。彼女はどうしてもチェックの室内履きを離すことができない。
金持ち有閑マダムで夫との関係が冷え切ったイサベル(アンヘラ・モリーナ)はハイヒールを買うことにストレス解消を求めているが、いつも自分のサイズよりもワンサイズ下のものを買ってしまう。

セニョーラと呼ばれて、“セニョリータ(注:結婚していない女性に対する呼称)”と言い直させるアデラはクラブへ客を連れてきた独身を称するレオナルドという裕福な中年男性に思いを寄せられ、少しずつ淡い期待を抱いてもいいかな、と思い始める。一方、娘のアニータは自分マンションのある一画だけしか出歩くことができないが、アデラのいない間に世話をしてくれる青年ホアキン(エンリケ・アルシデス)とともに大通りに出るための一歩を踏み出すことに成功する。
恋人のクン(ダニエレ・リオッティ)が自分から離れ、出て行ってしまったことで自暴自棄になってしまうレイレを支えるのが同じブティックで働くハビエル(アンドレス・ゲルトゥルディクス)。よき話し相手になってくれるが、いかんせんゲイであるため、クンの代わりとはならない。
イサベルがハイヒール集め以外に欲求不満の捌け口として新たに見つけたのが、若く素敵な足専門医(スペイン国立ダンスカンパニーの芸術監督ナチョ・ドゥアト)に理由をつけて会うこと。

この次から次へと出てくる人たちが少しずつ少しずつ意味合いを持ち、おのおのが関係を持ち始め、つながりが見え始めてくる。 通常、5人ものまったくつながりのない登場人物の紹介場面で、見ている者が迷子になってしまったり、話が散漫になってしまってだれだれになることは良くあることなのだが、本作品は流れが非常に良い。そして、それぞれの挿話がとても興味深くメタファーとして使われるものがとてもわかりやすい。人物像をしっかり設定したことも物語の骨組みをゆるぎないものにしたともいえる。さらに、ロケ地の選択も重要な切り口として大きな意味をなしている。マドリードの中心が主な舞台となっているのだが、物語の基礎を固めるのに十分すぎるほどの緻密さが見え隠れする。
とにかく出てくる場面場面ひとつひとつに意味がこめられ、問題提起がなされ、また、解決編がなくて消化不良をおこさせられる心配もない。とてもよく練られた、ありきたりな言い方ではあるが良作である、と思う。
人が何かに行き詰まり、悩み、八方ふさがりとなったときに、それを切り開いていくのは自分でしかないとういうこと、新たな一歩を踏み出すためにはたとえ助けをもらったとしても、最終的に殻を破るのは自らの意思である、ということを気付かせてくれる。

主演の5人のうち、4人までもがベテラン、もしくはその域に達しているが、アニータ役のモニカ・セルベラは同監督の「Hongo」に出演した以外には新人といえる。この「Hongo」でも強烈な個性を発していたが、今回も難しい役をいとも簡単にこなしている。知能レベルは幼稚園並であるが、肉体は成熟し、男性を心身ともに慕うアンバランスで微妙な女性を演じている。
それ以外の女優陣はこちらの期待を反しないだけの自然さをもってフィルムに沿っていく。ナジュワ・ニムリの得体の知れない倦怠感は、前作「Lucia y Sexo」で見せた神秘性とも似て、魅きつけられずにはいられない。アントニア・サン・フアンはご存知アルモドバル監督の「Todo sobre mi madre」でトランスセクシュアルの役を演じ、この世に名を知らしめた人物でもある。この人の基本路線は変わらないものの独特の色気を程よく発散させている。もともと舞台女優でもあり、自らも筆やメガホンをとる才能あふれる演劇人であることが前作のインパクトの強さのせいで隠れてしまっている。
ビッキー・ペーニャはなぜだか私の中でジェラルディーン・チャップリンとともに生活に疲れたおばさん役の右にでるものはいない女優さんとなっている。(なんだか、いつも同じような役回りなんだよな、気の毒に)
アンヘラ・モリーナを見ると必ず“痩せすぎが痛々しいよなぁ”とか“女優さんならもうちょっとエステとかに通ったほうがいいよなぁ”などと勝手なほうに思考回路がいってしまうのだが、今回もまた、同じことを考えてしまった。ナチョ・ドゥアトのようなとってもステキなお医者さんに足を見せたり、さわられたりするのなら、ちゃんとお手入れしなくちゃ、と私なら思ってしまう。私は見逃さなかったのだよ。ハイヒールをはいたアップの足がうつったとき、かかとの部分がガサガサだったわよ、アンヘラさん!!あんなに素晴らしい靴のコレクションがあるのなら、それに見合う足をつくらなきゃ。それとも、靴に見合うような足をもっていないことがイサベルの問題だったのかしら。。。(靴だけのクローゼットをナチョに見せるシーンがあるのだけど、一瞬、「イメルダ夫人」という言葉が頭をよぎったわ。。。)

さてさて、私が今回注目したいのは主演のほうではなく、脇を固める男優さんのほう。ホアキン役のエンリケ・アルシデス。前作「Sagitario」ではアンヘラ・モリーナと共演して、若きツバメちゃんの役だったのだけど、目がとっても印象的で、瞳に野生の牙を映している、そんな感じだった。今回はとってもやさしくて暖かく人を包み込むような雰囲気を醸し出してはまり役だったと思う。ハビエル・バルデムやジョルディ・モジャなどの次世代を行く層が薄いスペインの映画界で、頭角をあらわしていってほしいと思う一人である。
また、ハビエル役のアンドレス・ゲルトゥルディクスも舞台、映画、TVと少しずつ活躍の場を広げている若き才能の持ち主。どちらかといえば主演をはるというより貴重な助演者タイプとして成長していけばいいのではないだろうか、なんて感じている。
そして、クンの役を演じたダニエレ・リオッティ。不覚にも最後にクレジットで名前が出てくるまで思い出せなかった男臭さ200%のイタリア人。映画を見ながら、「どこで見たんだっけ、この人、どこだっけ。」とずっと考えつづけていたのだが、そう、「Juana la loca」で美公フェリペを演じた彼ではないか!あの時はふわふわの長髪に中世の衣装、サン・セバスティアン映画祭に出席してたときは目が隠れるほどのキャップで短髪だったために、記憶があいまいになっていたらしい。彼がスペイン映画界に進出するとは聞こえてきていないが、機会があればまたスクリーンでお目にかかれるかもしれない。これからはイタリア映画も要チェック!
ナチョ・ドゥアトは俳優というより舞踊界の人である。自分もダンサーとして踊ることもあるが、現在は監督、振付などでスペイン国内はもとより世界に進出しており、知る人ぞ知るスペインの人間芸術なのだ。最近は英国のロイヤルバレエの振付を担当していたようで、同団に所属するスペイン人ダンサーたちが「ナチョの振付は普通では考えられないくらい素晴らしく難しい。ついていくのが大変だ」とこぼしていた。(バレエに素人の私にはどれくらい大変なのかよくわからないのだが)実際、この人が普通に立ち話している姿ですら、オーラがたちのぼり、その立ち姿には惚れ惚れしてしまう。やはり、映像で見るよりは生で見るほうがずっといい。

最後にこの作品を見るにあたって、次はどのような場面展開になるのだろうか、と想像しながら見ていくと楽しい。どんでん返しがなくとても素直な筋なので余計な邪魔が入らず見続けることができるから。
ちょっと欠点を挙げれば、最近にありがちな傾向なんだけど、主人公の女の人のよき相談相手って必ずゲイのお兄さんなのよね。人物設定が簡単でオールマイティって感覚があるのかもしれないけど、安易に使いすぎてやしないかしらね?(そりゃ、スペインにはいっぱいゲイはいるけど十把一からげにされてもどうかと思うけど。。。)それだけ、偏見がなくなってきたともいえるのだけど。

BY TAKA(3月8日)


A mi madre le gustan las mujeres / 私のママは女の人が好き


監督:Ines Paris , Daniela Fejerman
出演:Leonor Watling, Rosa Maria Sarda, Maria Pujarte, Silvia Abascal 他


ヒメナ、エルビラ、ソルの3姉妹は母ソフィアの誕生日を祝う席で、突然ソフィアから新しい恋人ができたと告げられる。父親との離婚後、ピアニストとして自立している母親の新しい幸せに喜ぶ娘達。ところが、紹介された人物に卒倒せんばかりの衝撃を受ける。そう、相手は自分たちと同じような年頃の外国人の女性だったからなのだ。。。
長女で普通の家庭の主婦であるヒメナは、「別に、ゲイやレズビアンに偏見はないけど、どうして、ママが。。。」と混乱、末娘で歌手、アーチストを自称するソルは「いいじゃない。」と好意的。ノイローゼ気味で自分をコントロールできないエルビラは「ホモセクシュアルは遺伝によるもの???じゃぁ、私もレズビアンの気ががあるっていうこと?」とパニックに陥る。
事実を受け入れざるを得ない状況の中で、3姉妹はソフィアが恋人のエリスカの学資や援助で貯金や遺産を全て使い果たしている事を知ってしまうから、さあ大変。母親からエリスカを引き離す作戦を練ることに。そして、3人のうちの誰かがエリスカを口説いてしまえばいいのだ、ということになったのだが。。。

「うちのママは女の人が好き」というストレートな題名通り、レズビアンをモチーフとしたコメディ。男同士の同性愛についてはスペインでも結構いろいろな作品にお目にかかれるのだが、女性同士というのはまだまだ敷居が高いのか、それともテーマとして魅力に欠けるものなのかは不明だが、見かけることはない。まだまだ、未開の地であるのは確かだ。とはいえ、この作品は別に同性愛を問題として真正面から見つめているものでもなく、主人公がそれに悩みぬくというタイプのものでもない。この母親のカミングアウトをきっかけに、3姉妹が自分たちの見ていなかったもの、見えなかったものを発見していく、というとってもかるーいタッチのストーリーなのだ。

いつも、ひょうひょうとして決してドラマチックにならないソフィア役のロサ・マリア・サルダもさることながら、真中の娘を演じたレオノール・ワトリングが非常にいい。彼女は、昨年ビガス・ルナ監督の「Son de Mar」に出演した際に、いったいどこにこんな女優がいたんだろう、といわれたほど、ビガス・ルナ作品にはまっていた。官能的、退廃的な雰囲気を持ち、倦怠感を漂わせ、男の人の視線をつかんで離さない、そしてとらえどころのない神秘性をも持ち合わせていた。それが、今回は180度違った人物になっていた。何せ、ビガス・ルナに一旦はまるとそのイメージから脱却することは非常に難しい。あのペネロペ・クルスが「Jamon, Jamon」によって脚光を浴び、それ以降肉感的な役ばかりが回ってきて、肉体派女優を払拭するのに大変な労力を要したこともあるのだ。ところが、レオノールは今回ノイローゼ気味で運の悪い作家志望の女性になりきり、彼女のポテンシャルの高さというのを見せつけた。いやはや、脱帽である。もちろん声の使い方、表情の変え方、落ち着きのない目の動き、そしてすいこまれそうな笑顔。この人はスクリーンで化けるタイプ。アルモドバルの次回作にも出演予定。
ヒメナ役のマリア・プハルテは昔からおばさん臭いけど、今回も年齢にそったすっごく普通の家庭の主婦を演じてた。これも○。最近、その辺のおばさんタイプの女優がいないから、彼女のキャラは貴重だと思う。
そして、ソル役のシルビア・アバスカル。スペイン人中国人のハーフ役とか高校生の役とか童顔であることを売りにしていたようなんだけど、今回髪をストレートにして色をつけたら、結構年相応になりましたね。彼女の本来のよい部分というのがあまり出てなくて、ちょっと残念。

本作品の監督は脚本家としてはTVシリーズや映画などでも知られたイネス・パリス、ダニエラ・フェヘルマンの女性2人でデビュー作となるが、さすがにコメディはお手のもの。キャスティングの成功もあって、合格点以上のでき。映画を見終わった後についつい拍手したくなっちゃうような、ハッピーな気分にさせてくれる映画でしたよ。
それと、一応チェコ(エリスカの故郷)のロケもあるけど、これはちょっと余分だったような。。。
エリスカの弟役で出演してたチェコ人(だと思う)は昔のペネロペ・クルスの彼氏だそうだ。。。(別にどうでもいいことだけど。)

BY TAKA(1月23日)