((((( Spain Nandemo Jouhou Real Time !! )))))

PENELOPE CRUZ

今スペインでどんな映画がはやってるのか、
最新の情報を現地から
ちょっと独断と偏見を交えてお届けします。


★スペイン映画界注目の俳優さんたちをこちらで紹介してます。★



インデックス

2003年の作品

*Carmen/ カルメン (2003/10/10)
*Dias de futbol/ サッカーの日々 (2003/09/26)
*Atraco a las tres ... y media/ 銀行強盗、3時。。。半 (2003/06/22)
*La balsa de piedra/ 石の筏 (2003/05/29)
*Torremolinos 73/ トレモリーノス 73(2003/05/10)
*El sueno de Valentin/ バレンティンの夢(2003/04/10)
*El oro de Moscu/ モスクワの黄金(2003/04/09)
*La vida de nadie/ ラ・ビダ・デ・ナディエ(2003/03/23)
*La gran aventura de Mortadelo y Filemon / モルタデロ&フィレモンの大冒険(2003/02/28)
*2002年度ゴヤ賞発表(2003/02/07)


Carmen /カルメン


監督:Vicente Aranda
出演:Paz Vega, Leonardo Sbaraglia, Antonio Dechent, Maria Botto 他


1830年、スペイン、アンダルシアの山中、フランス人の作家プロスペル・メリメは“おたずね者”ホセと遭遇。警戒するホセに食事を与え、出会ったことは口外しないと約束する。それから後、メリメは怪しく美しいジプシー、カルメンに誘われて行き着いた家でホセと再会、最後は牢獄で死を待つホセをたずねることとなった。そこで、ホセの自己破滅の物語を聞かされるのであった。。。
ナバーラ出身のホセはセビージャのタバコ工場につめる衛兵隊長として勤務していた。ある日、女工同士の喧嘩で相手を傷つけたカルメンの牢獄送りの護衛を命じられた。ところが、連行中にカルメンに篭絡され逃げられてしまう。この不始末に格下げとなったホセの元にまたもやカルメンが現れる。カルメンに溺れていくホセは、自分のものにしたい一心で自らの上官を殺し、山賊となり、カルメンが関係していく相手を次々と手にかけていく。。。

「カルメン」。オペラで何回となく上演され、映画化もされてきた古典ともいえる物語。誰しもカルメンといえば、情熱的で男をたぶらかす才に長けた魔性の女である、というイメージを持つ。ところが、このイメージはいわゆる“たぶらかされた”ホセの証言をもとに小説として仕上げたフランス人作家の視点で創り上げられたものなのである。さらに、オペラ化、映像化される過程でかなりの脚色が加えられたために原作から離れたステレオタイプの「カルメン」が定着してしまったというのが現実であろう。今までの「カルメン」とは別に、原作により近い形で映像化し、ビセンテ・アランダ流に解釈した作品が今回の「カルメン」である。

ビセンテ・アランダは言う。「カルメンは服を着ていても脚を開いている女。男はカルメンの道具でしかない」と。使える男と使えない男を瞬時にかぎ分け、自身を投げ出したかのように見せ、瞬く間に自らの僕へと変えてしまう。自らの肉体を道具として使ったとしても彼女自身が人に使われる道具となることはない。命令されること、縛られることを嫌悪し、拒否する。
不必要になった道具には見向きもせず、それらが処分されることに涙することもない。男供の嫉妬や怒り、独占欲を操り自らの意図を達成する。恐ろしいまでに計算し尽くされた筋書きをいとも簡単に本能の赴くままに実現していくのである。

この残酷性を備えた自由奔放な女を可能な限り強靭に、またエロチックに描いたビセンテ・アランダ。そしてそれを演じたパス・ベガ。女優を意のままに演じさせる力量はベテランのなせる技であるが、それに応じたパス・ベガも引けをとらない。「Lucia y Sexo」で一気に世の注目を浴び、その年のゴヤ新人賞を獲得後、「Solo mia」をはさんで本作品の出演となったわけだが、当初、ビセンテ・アランダが描いていたカルメン役は別人であった。前作「Juana la loca」で好演したピラール・ロペス・デ・アジャラにオファーしたところ断られ、ペネロペ・クルスに打診するも拒絶の憂き目にあい、結局パス・ベガに落ち着いたということである。前作同様、彼女の脱ぎっぷりは潔い、のだが、そのことが彼女の女優としての質を貶めないことを願うばかりである。
一方、その対極にすえられたのが、アルゼンチン俳優であるレオナルド・スバラリア。男前度が高く、魅力的なのであるが、あまりにカルメンに骨抜きにされていいようにされている場面が続いて、観客の失笑を買ってたのはお気の毒である。女を浮き立たせるために“いい男”をピエロにするのは私の趣味にあわない上に、あまり適役ではなかったというのが正直な感想。

その他の点では、舞台設定、衣装、色の使い方は素晴らしいので是非注目してほしい。その場の熱気が伝わって来る上に、葉巻の香りや人々の汗の匂いまでが感じられる。特にオープニングでのタバコ工場での女工たちの姿は圧巻。
疑問なのは、ホセがカルメンを連行していく途中、いきなりバスク語会話が挟まる場面。字幕がでないのでどんな会話がなされているのかわからない。交わした会話自体にはあまり意味を持たないのかもしれないが、やっぱりわからないととっても気になる!

さて、今回のカルメン、新たな発見があったのだろうか。アランダなりの新解釈があったのだろうか。決して私がいろいろな「カルメン」を見てきたわけではないが、特に驚くような解釈の相違というのはないといえる。ただひとつ確信したのは、カルメンという種類の女は時代を超えていつでもどこにでもいるものなのだ、ということ。現代の犯罪報道で“世紀の大悪女”などと冠がつくのはこのカルメンと似たりよったりなのだから。犯罪に手を染めないまでも、女性なら一度くらいはカルメンのようにあまたの男をなびかせ手玉にとってみたい、とおもうのではなかろうか。少なくとも私はちょっぴりうらやましい、と思ってしまった。

最後に、ビセンテ・アランダの得意とする女の性を全面に押し出した作品だったにもかかわらず、男の情けなさばかりが強調される作品になってしまったのは残念。鳴り物入りの『ビセンテ・アランダの「カルメン」』だからきっとすっごい毒気なんだろうな、と期待した割にそれほどでもなく、あまり余韻を楽しむという感じでもなく、中途半端な気分にさせられてしまった。

BY TAKA(10月10日)


Dias de futbol /サッカーの日々


監督:David Serrano
出演:Ernesto Alterio, Alberto San Juan, Natalia Verbeke, Maria, Esteve, Pere Ponce 他


長い長い夏休みも終わり、やっと映画市場も活気を帯びてきた様相。先週末からサン・セバスティアン映画祭も始まり、閑散としていた映画館にも人が戻り始めた。 スペイン映画界では観客動員数の下降が言われつづけているが、作品の質そのものが落ちてきたわけではない。映画の年間製作本数の減少は否めないが、小粒ながらも良質なものや若い監督の勢いのある作品が散見される。今回紹介するのもそんな作品の一つ、「Dias de futbol」。

晴れてシャバの空気を吸える身分となったアントニオを待っていたのは地元の友人たち。アントニオの妹ビオレタにプロポーズするも色よい返事をもらえないホルヘ、シンガーソングライターになる夢を捨てられない警官のミゲル、妻カルラの妊娠にとまどうラモン、いつまでたっても売れない役者のチャーリー、女にももてず大学も卒業できないゴンサロ、どいつもこいつも30過ぎても煮え切らないやつばかり。
そんな仲間を見たアントニオは、刑務所で経験し、いたく気に入ったグループセラピーに目覚め、自分もセラピストになってみんなを救ってやるのだと張り切る。手始めとしてサッカーチーム結成を提案、仲間たちに幸せな気分を味あわせようと考えるが。。。

昨年、大した前評判ないままに公開されたにもかかわらず、意外なまでの好評を博し、何ヶ月ものロングランを続けたミュージカル映画「El otro de la cama」。この脚本を担当したダビ・セラーノが念願かなって監督として再度脚光を浴びることとなった。
前作はミュージカルとはいっても出演者の歌、踊りに関しては批評のくだしようもないほどお粗末なものだったのだが、なぜだか見終わったあとに新鮮な空気を吹き込まれた気分になれた。不思議と顔がほころんでしまう、そんな作品だった。そのラインから一歩踏み込んだ形になったのが今回の「Dias de futbol」。前作に出演したエルネスト・アルテリオ、ナタリア・ベルベケ、アルベルト・サン・フアン、マリア・エステベを中心にその他もろもろが精神的に大人になりきれない30代の男女を演じている。

この作品を一言でいうと、コメディーに徹したコメディーである。どこにでもいるようなスペイン人たちの寄せ集めをちょっと大げさに描いて笑わせる、現代スペインコメディーの王道ともいえるもの。頼りない男性陣とは対照的に強く手ごわい女性を配したのは“自分が男だからかな?”という監督の説明による。(28歳の監督の女性像ってこんなすごいものなのか???)警察官のだんなをせせら笑い、尻にしきまくる妻(普通警察官というのはマッチョな人が多いといわれているんだが)、マニュアルどおりに口説こうとする男に対して、まだるっこしいとばかりに「さぁ、やるよ!」と誘う女、30男を全くの子ども扱いする母親。異議を唱えることもできないでついていく男供の背中は寂しさが漂う。
こんなだらしない男たちをどうにかしようと一人奮闘するアントニオのサッカー計画もいまいちうまく機能していかない。なにせ、みんなにやる気がない。試合をやっても大差で負けるだけ。チームの名前、世界最強の「ブラジル」とは似てもにつかないばったもんチームである。そこで、アントニオのムショ時代の友人セラフィンも加え、どうにか勝つ方法を考える。もちろん、正当な方法じゃぁない。審判を買収してみたり、相手チームの選手のおケツに待ち針を刺してみたりと考えられるだけのことを試すが成功しない。これってちょっとおかしくないだろうか。だって、みんなのやる気を引き出し、自分たちにもやればできる、っていう自信をつけさせるセラピーなのに、ずるしてたんじゃ、意味がないじゃない。と考えるのはまじめな国の人たちの意見。そう、かまわないんです、何しても。勝つ、という事実が必要なのだから。

さて、この作品の面白さって何かというと、すごく笑いの幅が狭い、ということだ。幅が狭いというより対象とする範囲が狭いといったほうがよいかもしれない。スペイン語を理解し、スペインに住んでいる人(というかマドリードといったほうがよいかも)が日常的に何気なく耳にしている、目にしているものを取り上げ強調することによって、自分にあてはまるかも、とか自分の周囲にありがちなことっていうのを再認識させて笑いを誘っているといえるから。レアル・マドリードのユニフォームを着てる奴もいれば、アトレティコのエンブレム入りのパジャマを着てる奴もいる。いまどきはやらないよっていうようなボタンのいっぱいついた時計をしてる奴もいる。そうそう、短パンの裾をわざわざ中に入れ込んで半ケツ状態にする奴もいたっけ。さりげない描写ひとつひとつにいっぱい意味が含まれている。細かいところでは「ブラジル」の対戦相手の名前も結構工夫してしゃれているので要チェック。

出演者にしても芸達者な人たちでいっぱい。アントニオ役のエルネスト・アルテリオは年を重ねるごとに魅力的になってきている。目の周りの皺もちょっと増えて、最近は父親のエクトル・アルテリオに似てきたなぁ、と感じることが多くなった。そして今回強調したいのがマリア・エステベ。ラモンの妻のカルラ役で出演しているが、前回同様かなりおかしな役、というか彼女の役どころはいつも偏執的。自分の世界に入り込んで滑稽この上ないのだが、それがまた魅力となっているともいえる。いってみればアメリカのTVシリーズ「フレンズ」のフィービーみたいなもんと思っていただければよろしい。前回の「El otro lado de la cama」で、もちろん歌い踊っていたのだが、この人、両親からもらった遺伝子どこに行っちゃったの?って思わせるような代物だった。そう、彼女の父親はかの有名なアントニオ・ガデス母親はスペインの美空ひばり(と私が勝手に呼んでいる)マリソルなのに。スペインの男性が欲してやまない金髪、碧眼女性でありながらちっとも美人じゃない彼女、正統的な役はちょっと無理なのか。だんなをその気にさせるのに赤い下着をつけて迫るシーンも色気が欠けてて彼女らしい。
そして、妙な雰囲気を漂わせているセラフィン役のフェルナンド・テヘロもまともなんだかどうかわからないところがいい。まぁ、この人もマリア・エステベと同様へんてこりんな役でしかお目にかからないのだが。

2作続けて楽しい作品を世に送り出したダビ・セラーノ。彼は、「政治的なメッセージを含んだ映画は苦手、みんなが楽しんでくれる作品を作りたい」という。既にその思いは達成されている、といえるだろう。これからの作品にも期待したいところだ。

BY TAKA(9月26日)


Atraco a las tres ... y media /銀行強盗、3時。。。半


監督:Raul Marchand
出演:In~aki Miramon, Manuel Alexandre, Josema Yuste, Cristina Sola 他


2001年12月、ユーロ完全導入を前にプレビソール銀行がドイツのブレーメン銀行に吸収された!マドリードのとある支店の副支店長のデルガドは新しくやってきたドイツ人社長オットーの権力をかさにきて、支店長のドン・フェリペを追い出し、行員全員を年内いっぱいでお払い箱にするという。
いきなりのお達しに右往左往する行員たちの中でただ1人、出納係のガリンドが仕返しをしてやろうと行員たちをそそのかす。ガリンドの持ち出した案とは、自分たちの銀行を襲撃しよう、というものであった。尻込みをしていた仲間たちも徐々にその気になり、着々と計画を練っていくが。。。

1962年に今は亡きホセ・マリア・フォルケ監督によって公開された「Atraco a las tres」のリメーク。ラウル・マルチャンによって焼きなおされたクラシックコメディーは時代の移り変わりを取り入れたユーロ版。前作ではまだまだ若かったマヌエル・アレクサンドレが今回は人の良い支店長ドン・フェリペになって戻ってきている。

一般的に映画界でオリジナル版よりリメーク版のほうがよかったということはないと思ったほうが良い。だいたいオリジナルがたいしたことのない作品だったらリメークしようという気にはならない。逆にいえば、オリジナル作品が素晴らしいからリメークを世に出したいと思うのだ。ということは、よっぽどの隠しだまがない限り、オリジナルを超えることには無理がある。リメーク版をひとつの作品としてみるなら別だが、まず両作品を比較してみたくなるのが人の子というもんである。
今までにちょっと思いつくのを挙げてみると、私の大好きなリュック・ベッソンの「ニキータ」。あの冷ややかなざらついた残忍さがブリジッド・フォンダによってただの女性暗殺者物語になってしまった。ヒッチコックの「サイコ」はカラーになってどきどきする感覚が生生しさにかわってしまった。アメナバルの「オープン・ユア・アイズ」もトム・クルーズによって鼻持ちなら無い男のわがまま夢物語にされてしまった。そうそうアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」。マット・デイモンとアラン・ドロンを比べてはいけなかったか。。。

おそらくオリジナル「Atraco a las tres」を見ていなかったら、別にこの作品に特別な興味も抱かなかっただろう。でも、この40年も前のしろもの、白黒で映像もいまいちのものを見てしまっていたんだな、これが。すごいクラシックだと思ったのだけど、罪のない無邪気な人々たちがすごく魅力的だった。その当時、なんのハイテク機器もなくってとにかく知恵を絞りに絞るっていうところがかわいくて、その上とにかく高圧的でゴマスリ人間のいやな上司にどうやってぎゃふんと言わせるかっていうところが重要だった。それも銀行からお金を盗むんではなく、銀行に強盗しにくるという肝っ玉ぶりがよかった。最後のひねり方もその当時の世相を反映したようなもので、ふ〜ん、そうくるか、であった。
じゃあ、21世紀の銀行強盗劇は?といえば、40年前も世の中は進んでいるのに、なぜか前時代的な笑いを含んだちゃちなもの。今の時代、直接銀行に強盗しにきたら一発で御用になってしまうから一応、強盗ではなく銀行から大金を盗むという方法にかわっていた。その方法たるやずいぶんと古典的なんである。が、この方法、現代でもたまに泥棒さんたちが使っている手法なんですわ。どんな方法か?って。同じ建物、もしくは隣の建物の壁を破って目的の物のある場所にたどり着くっていうもん。夏のバケーション時期になると都会のマンションは人が少なくなるもんだから、手荒だけど効果的なこの方法好まれるんですよねぇ。という意味で野暮ったい方法だけど現実的か。
そして、40年前とは明らかに違うこと(パブリックな部分で)は恋愛の自由さということか。今回の作品の中身は現代コメディーとして弱い部分があるとみたか、余分な男女の関係がいっぱい出てくる。これに関しては全く不必要といったほうがよい。質を落とすためにわざわざ入れたとしか考えられないようなばかばかしさなんである。これじゃ、フォルケ監督、三途の川をもどってきちゃいそうだよ。

出演者をざっと見渡すと、結構TVドラマ系の役者さんが多い。以前ははっきり色分けされていたのが、最近はTVと映画がボーダレスになってきた。その中でガリンド役のイニャキ・ミラモンはホセ・ルイス・ガルシ監督の「You're the one」で好演したことが記憶に新しい。そのガリンドがべたぼれしちゃう宝くじ番組のモデル役のエルサ・パタキはTVドラマ出身であるにもかかわらず、映画やCMでしかお目にかかれなくなってしまった。(ますます色っぽく美しくなってきていておじさんたちの鼻の下がのびるのも理解できるところ)

なんか、中途半端に前作を踏襲してしまったのが映画全体に響いてしまった感じがする。どうせならもっと斬新にしても良かったのに、と思う。最終的に、お間抜けな彼らが大金を手にできたのか、という点については口をつぐんでおくが、この結末、私の望んでいたものとは違ってしまったということだけを付け加えておく。

BY TAKA(6月22日)


La balsa de piedra / 石の筏


監督:George Sluizer
出演:Federico Lippi, Gabino Diego, Iciar Bollain, Diogo Infante, Ana Padrao 他


ポルトガルの海岸、子供の頭ほどの石を波間に投げると何百メートルも先まですべって飛んでいく光景を目にした男、ジョアキム。木の棒で地面に描いた線を消そうと思っても消せない不思議な現象を体験したジョアナ。スペイン、エクストレマドゥラ、突然鳥の大群が頭上を飛び回り彼の行く先々に現れる状況におかれた小学校の教師ホセ。ただ一人だけ地面が揺れていることを知覚するアンダルシアのいなかで薬局を営むペドロ。
一方、イベリア半島とヨーロッパ大陸の境界であるピレネー付近に大規模な断層が発生、ついにはイベリア半島が大西洋にむかって動き始めたのであった。。。
全く関係のなかった4人はどこからともなくあらわれた犬のあとに続き旅を始め、たどりついた先は使っても使っても減らない青い毛糸を持つ農家の未亡人マリアの家であった。5人と一匹はこの信じられないような現実を自らの目で確かめるため、ピレネーにむかって旅立った。。。

ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマゴの小説「La balsa de piedra」の映画化。
スペインとポルトガルを擁するイベリア半島。この半島がつけねの部分にあたるフランスとの国境を形成するピレネー山脈の部分から切り離されて突然巨大な筏のように離れていったとしたら、この半島の人々はいったいどうなるのか。大陸につながっているという事実がヨーロッパ人としてのアイデンティティーを支えているのであれば、半島が島となり独立した存在になったときにいったいどうなるのか。ヨーロッパを各国の統一体とするという考え方が浸透し、それが実現可能なものととらえら始められたその頃、スペインとポルトガルがECに加盟をはたした1986年、この小説は発表された。
「ピレネーを越えればアフリカ」と自嘲気味に言われ続けてきたこの土地、物理的に大陸から独立し、また、アフリカからも遠ざかる。英領ジブラルタルとも別れを告げ、イベリアの国だけが大西洋のど真ん中まで浮遊する。まるで巨大な石の筏自身の意志が支配しているかのように。

メタファーで満ち満ちたこの物語は一本の糸が"選ばれた"者たちを引き寄せ、愛を語らせ、人間の内面奥底深くに内在する何かを探させる。何があるのか、何に気付くのか、旅という道のりが人を成長させていく。
奇妙な人間関係、自然界の摂理そのものまでもが根本から変ってしまう不思議さ。次から次へと命題をつきつけられる。

この作品を制作するにあたって、特撮が随所で使用されているが、これに関してあまりよい評価がきかれない。資金繰りがうまくいかなかったなどととりざたされているが、決してちゃちなものではないといえる。どれだけお金を使って大規模な特殊効果を取り入れても現実的でなければ意味がない、というのが私の自論。ビル破壊現場、火事場、サイクロン、海難事故、etc、etcとわざとらしく主人公を窮地に追い込み、最終的には子供と犬と主人公が生き残ってめでたし、めでたしという金の使い方には疑問をはさむひねくれ者なので、さりげない特撮を取り入れているこの映像には好意を感じる。
また、作品をしっかり支えるために欠かせない俳優の配置の仕方にも注目して欲しい。フェデリコ・リッピ、ガビーノ・ディエゴ、イシアル・ボジャイン。スペインから出演している3人は皮相的なお手盛り演技とは無縁の人たちである。目の前に盾として立ちはだかっているような強さがある。特にイシアル・ボジャインは子役から大人の女優へと羽ばたき、さらには自らもメガホンをとる才媛である。ポルトガルからはディオゴ・インファンテとアナ・パドロン。両者ともポルトガルでは知られた存在のようで、TVドラマを中心に活躍しているとのこと。ただ、ディオゴ・インファンテは先日公開された「13 Campanadas」にも出演しており(このときは全くなまりのないスペイン語を話していたのでポルトガル人とはちっとも気が付かなかった)、これからスペイン映画の中でちょくちょくお目にかかれるかもしれない。

最近のスペイン映画もエンターテイメントとしての要素が色濃くなってきているだけに、この作品を見ることで、とても考えてしまった。何かを考えたのではなく、考える、という作業をしたのである。何かに属すること、何かの一部分であること、が心のよりどころとなる、その前提が崩れた場合の喪失感によって考えるという機能がストップしてしまうのだろうか、本能がそれをおぎなってくれるのだろうか。。。
もともとは個別の物体であったものがくっつき重なりいびつながらもひとつの塊となる。自分自身がその塊を形成した一つであったことなど忘却のかなたとなっている。個を失することの危うさ、原点に戻ることの重要さを思い起こさせるための作業を与えてくれる、そんな作品であるように感じる。

街角でこの原作を読んでいる人をみかけた。映画が公開された影響なのだろうか。大陸の一部分で生まれ育ったスペイン人やポルトガル人と違い島国育ちの日本人が同じ感覚を持つかどうかはわからない。でも、明らかに自分が揺るがされていることが感じられる。原作を早く読まなくてはという思いにかられている。

この作品は見るものによってそのスケールの大きさが変化する。私にとっては壮大な作品であったといえる。そして、大西洋上に浮かんだイベリア島。ビバ、イベリア!

BY TAKA(5月29日)


Torremolinos 73 / トレモリーノス 73


監督:Pablo Berger
出演:Javier Camara, Candela Pena, Juan Diego 他


アルフレドは百科事典の訪問販売員だがさっぱり売れず、家賃を滞納する始末。妻カルメンは子供が欲しくてたまらないのだが、とてもじゃないがアルフレドの収入と美容院でのパートとでは生活がなりたたず、子作り計画は先延ばしにされている。
そんな折、アルフレドの勤める出版者の上司が業績不振を打開するため、新たなる分野の開拓案を販売員たちに提示する。その案とは“夫婦の営みをフィルムにおさめてスカンジナビア諸国へ頒布する”というものであった。。。
テープ1本の破格の値段につられてアルフレドとカルメンはその案を受け入れることにし、せっせとテープ制作に励む。その結果、テープの爆発的な売上によって2人の生活は向上するのだが、カルメンは子供が授からないことを気に病み、病院で検査を受けることにする。。。

1970年代が舞台のこの作品、はっきりと“ポルノ”が物語の柱となっている。ただし、成人指定映画である“ポルノ映画”ではないことを断っておく。ちょっとHなコメディーというカテゴリーに属するとみてよかろう。

先週行われたマラガスペイン映画祭において、最優秀作品、監督、主演男優、主演女優賞を獲得したこの異色の作品、起承転結の起承まではなかなか面白い。アルフレドとカルメンの工夫をこらした自作テープの制作現場。まるで一昔前の日本のポルノ映画か?というようなお芝居が繰り広げられる。カルメンが花嫁姿や看護婦さんの衣装で登場したり、サッカーのユニフォームを着た女の子になったり、アルフレドがガスボンベの配達人で現れたり。素人の2人が初々しく濡れ場を演じるという光景が郷愁を誘うに違いない。今のスペインじゃ、一般のTVチャンネルで男女の局部丸出し交尾が流されててエロチックな感傷なんちゅうもんは一切排除されちゃっているんだから。
でもこの真剣なおふざけの裏にもカルメンの女としての決意が見て取れる。子供を育てるには金がいるという前提のもとに、子作り現場を人に売って子供が授かれば一石二鳥と悲しくも必死にいたすのである。
このあたりまでがとても盛り上がって次はどういう展開になるかと期待させられるのだが、だんだんとテンションが下がってくる。不妊検査の結果を知って自暴自棄に陥るカルメンと本当の映画の脚本を完成させると意気込むアルフレド。カルメン主役の脚本の映画化、デンマークからの撮影隊とのからみ、アルフレドのジレンマ、カルメンの秘めた決意等々、悪くないのだが、少しずつ歯車がかみ合わなくなり、一応ラストでつじつま合わせをするにとどまってしまった。
特に初のデンマークとの合作ということでデンマーク人(だと思う、知らない俳優さんたちなので)をはめこんだのははっきりいって失敗。アルフレドの映画制作への純粋さを揶揄する効果を狙ったのか、それともただ単にばかばかしさ、受け狙いなのか。

さて、このコメディで体当たり演技を披露したのはハビエル・カマラとカンデラ・ペニャ。ハビエル・カマラは昨年アルモドバルの「Hable con ella」で主役をつとめ知名度をぐんと上げたのでご存知の方も多いはず。人から評価されるほどの役者となることで今まで表にでていなかった輝きが一気にはじけたといったらよいのか、不思議なほどに魅力的な役者となっている。今回のアルフレド役では禿げていて、妙にいやらしい口ひげにぽってりした体、おじさん風の胸毛とどこをとっても普通のスペイン人ちっくで苦笑してしまう。
また、カンデラ・ペニャも羞恥心を拭い去り、ハビエル・カマラのよきパートナーとして好演。彼女の今までの作品を見ると精神的に不安定で自分をコントロールすることができない、とか自己中心的で周囲を振り回すとかいう役どころが多く、いつまでたっても垢抜けないという印象が強かった。だが、それが幸いして、この作品では素人っぽさ100%のポルノ女優(?)になれるというわけだ。普通の30代女性のほとんどケアしていないようなボディーラインを持っていてすごく現実的なのだ。プールの飛び込み台に立っている彼女の後姿をみるとなぜか「ブリジット・ジョーンズの日記」のレニー・ゼルウェガー(ま、彼女は役柄上すごいいきおいで体重を増やしたという役者魂っちゅうのがあるが)を思い起こしてしまった。
上司役のフアン・ディエゴもいつもかわらず狸オヤジぶりを発揮。主役以外に実はすっごく目をひいたのが上司の秘書。70年代当時のヘア・メイクで登場するのだがなんともけだるい雰囲気を漂わせ不思議な魅力をふりまく。そう、彼女はマレナ・アルテリオ。素顔とはえらく違って男の人にこってりメークをしちゃったようなかんじ。父親(エクトル・アルテリオ)や兄(エルネスト・アルテリオ)ほどスクリーンでお目にかかることはないが、出てくるときは同一人物とは思えないいでたちで登場する。

個人的にはこういう作品嫌いではないが、何かが足りないような気がしてならない。出演者の超がつくほどの好演に助けられて鑑賞に堪えうるものになってはいるがちょっと練りが不足していると思う次第である。映画を見終わった後の周囲の感想に耳を傾けてみると、みんな一様に「ハビエル・カマラは最高だね」という意見に終始していた。同感。

BY TAKA(5月10日)


El sueno de Valentin / バレンティンの夢


監督:Alejandro Agresti
出演:Rodrigo Noya, Carmen Maura, Julieta Cardinali 他


1969年のブエノス・アイレス。バレンティンは8歳の男の子。小さいときに母親が出て行ってしまったまま、父親もたまにしか顔をみせないので彼の家族はおばあちゃんだけ。そんなバレンティンには2つの夢がある。将来は宇宙飛行士になること、そして、お父さんに素敵な彼女ができてあったかい家族をつくること、である。でも、お父さんの彼女はいつもとんでもないような女性ばかりでバレンティンをがっかりさせる。
ある日、お父さんの新しい彼女レティシアと会い、彼女こそ僕の求めていた人だ、と心をうきたたせ、お父さんのそして自分のことを話し始めるが。。。

アルゼンチンのアレハンドロ・アグレスティ監督が自らの幼少の頃のことを思い描きながらフィルムをまわした「El suen~o de Valentin」。この作品はアルゼンチン制作なので厳密にはスペイン映画の範疇には入らないのだが、スペインからカルメン・マウラも出ているのでご紹介を。

8歳という年齢のわりに大人びて、妙に聞き分けの良いバレンティン少年のナレーションで物語は進む。お母さんに甘えたい年でありながら、それもできず、おばあちゃんにがみがみいわれながら自分の空想の世界を無限に広げていく。宇宙飛行士になる夢、その当時、やっと人が月に降り立つことが可能になった時代。手作りの宇宙飛行士の衣装を着て家の中を歩き回り、遊びに来たおじさんに夢を語る。おじさん、おばあちゃんに「宇宙飛行士?宇宙飛行士はアメリカ人かロシア人しかなれないんだよ。」といわれたりする、そんな時代。
こんな非現実な夢とは好対照に自分の家族を持つというとっても身近な夢をかなえようとしてもなかなかうまくいってくれないバレンティン少年の嘆き。実はとっても深刻なのに彼のたんたんとした話し方からはコミカルな部分が強調される。初めてこれは、と思ったレティシアが父親から去ってしまったときの落胆と怒り。
そして彼の一番の友人はピアニストのルフォ。バレンティンを子供として扱うのではなく、一人の友達として接してくれる心やさしい青年との交流。

全てが大きな遠視用のめがねをかけたバレンティン少年の視点で語られる。なんともいえず心がほっくりしてくるような作品である。このバレンティン少年役のロドリゴ・ノジャは普段でも映画の時ほどではないが遠視用のめがねをかけとぼけた風貌でインタビューに答えたりしていて役そのもの。
おばあちゃん役はカルメン・マウラなのだが、実生活で孫を持つとはいえ、とてもそんな風にはみえないのはご存知の通り。あまりに若々しいので撮影中は髪を白くしたのだとか。小うるさいけどバレンティンに至上の愛をそそぐおばあちゃん。バレンティンに死んでしまったおじいちゃんとの出会い、結婚の話をする場面はとってもとってもステキである。

アグレスティ監督もバレンティンの父親役でちょっと登場する。狂ったようにバレンティンを叱る場面のみなのだが、子供時代の監督の父親に対するイメージを強調した結果なのだろうか。
このアグレスティ監督は地元アルゼンチンで多くの短編、長編を発表しているが、98年のサン・セバスティアン映画祭において「El viento se llevo lo que」でコンチャ・デ・オロ(最優秀映画賞)を獲得してからヨーロッパでも知られた存在となった。前作「Una noche con Sabrina Love」も思春期の男の子の人間としての成長過程を描いたなかなか良い作品で個人的にはかなり好きである。

最後にちょっと蛇足。この作品、いうまでもなくアルゼンチン映画なので、アルゼンチンのスペイン語が話されている。スペインに語学の勉強をしに来たばかり、という方々にはこのアクセント、イントネーションがちょっとつらいかも。ちなみに、ジャ、ジュ、ジョの発音がシャ、シュ、ショになってしまうことが多いが、このバレンティン少年もella、llorarなどの単語を“エシャ”、“ショラール”と発音している。

長編作としてはちょっと短いけれど、ほのぼのとした気分に浸れるのは請け合い。特にラストは泣けてきちゃうようなかわいさがあってお薦めしちゃいます。このイースターの時期、時間が許せば映画館に足を向けてみるのはいかがかな?

注:アルゼンチンでの原題は「Valentin」ですが、近日中にスペイン作の同名の作品が公開されるため、スペインでは「El suen~o de Valentin」と題して公開されることとなりました。

BY TAKA(4月10日)


El oro de Moscu / モスクワの黄金


監督:Jesus Bonilla
出演:Jesus Bonilla, Santiago Segura, Concha Velasco, Alfredo Landa, Antonio Resines, Gabino Diego 他


看護士のイニゴは死ぬ間際の患者に「モスクワの黄金」の話をささやかれ、患者のもっていた古い腕時計を手渡される。「モスクワの黄金」とはスペイン内戦時に共和国軍がモスクワに持ち出そうとして持ち出すことのできなかったお宝のことをさすらしい。マドリードの郊外にある教会の祭壇の下に埋められている、と解した2人は夜中にお宝捜しにでかけるが、成果がないまま戻ってくる始末。
ところが、ひょんなことからイニゴがもらった腕時計の中にお宝の隠し場所のヒントの一部分がはめこまれていることが判明。ヒントを解くには全く同じ腕時計が手に入らなければどうにもならない。
パペレスとイニゴだけのものであったはずの黄金が、時計を手に入れるごとにキャバレーで歌う年増の踊り子、その若きつばめちゃん、古時計商などに秘密がもれていき、取り分が少なくなっていく。。。
はてさて、一体この黄金、どこにうまっているのやら。この秘密を解くのは誰?そして、その黄金を見事に奪っていくのはパペレスとイニゴなのか、それとも。。。

主役ヘスス・ボニージャの監督デビュー作。クレジットされているメンバーを見れば一目瞭然、お笑いどたばた劇であること間違いなし。それもかなりまとまりのないB級作品、というのが予想されていた。全くその通り。お金を払ってみるべきものか。かなりの疑問が残る。
とはいえ、私にとって、また多くのスペイン人にとって、これら著名な出演者の顔写真が入ったポスターを前に映画館の前を素通りするのは至難の業といえる。
ぶさいくな容姿を売りに、ここまで自分を落とすか、というほどのサンティアゴ・セグーラ、若さの秘訣は一体何?と頭をひねりたくなるコンチャ・ベラスコ、年間映画出演本数記録を持ってるのでは?と思われるアントニオ・レシネス、30年以上も前のストリップ劇場の踊り子を連想させるネウス・アセンシ、この作品の中では一番まともにみえるマリア・バランコ。これに加えて、お笑い界のベテラン、チキート・デ・ラ・カルサーダ、キューバの新進お笑い青年(?)アレクシス・バルデス、毒舌切れ者のエル・グラン・ワイオミング、間抜けで憎めない青年役をやらせると天下一品のガビーノ・ディエゴ。そして締めは超ベテラン俳優アルフレド・ランダ。もちろんワンシーンだけのためにフアン・ルイス・ガリアルド、アンドレス・パハレス、サンチョ・グラシア、ホルヘ・サンスなどなど。おまけにいつも不法滞在移民役をこなしているモロッコ人のFarid Fatmi(正確にはどう読むんだろう。。。不明)も登場。
ということで、公開第1週の興行収入はダントツトップであったのだ。興行成績というのは作品のできと比例するわけではないのだと実感。

なぜ、この作品があまりおもしろくないのか。おそらく出演者が撮影の段階で仲間内で楽しんじゃったからだ、と思う。人に見せるためのものではなく、自分たちが自分たちを笑う自己満足の世界っていうやつ。そのうえ、これだけの面子を集められたんだぞ、俺ってすご〜い、というヘスス・ボニージャの驕りもあったのでは?適材適所、それなりのキャスティングという手順を踏まず、有名人をショーウィンドーに並べて満足だったのか。それと、ヘスス・ボニージャという俳優はずーっと画面に出ているべき人ではないことも再確認。彼はうどんにおける七味唐辛子、おでんにおけるからし、ぎょーざのラー油みたいなものなのだ。
とはいえ、相手役に選んだのがサンティアゴ・セグーラだったのは大正解。彼の笑いのセンスは鋭い。突っ込みだけでなくボケもかませて攻撃一辺倒のヘスス・ボニージャをうまくフォローしている。
もちろん、ガビーノ・ディエゴの右往左往ぶりもわれわれを裏切らない。
個人的に一番不評なのはコンチャ・ベラスコ。彼女はつい最近スペイン映画アカデミーからこれまでの映画界における活躍をたたえられて金メダル(オリンピックじゃないんだから、金メダルっちゅうのもなんかへんな話だが)を贈られている。が、あのさえない演技とあの声でお笑いのテンポが崩れてる。アルフレド・ランダとのコンビは年相応でよろしいが。

あまり、良い点を挙げられなくて申し分けないのだが、嘘はつけないのでこのとおり。有名人俳優を見に行くのなら良し、時間つぶしとしてみるのなら良し、作品全体は語るに値せず。
フランコの死後に雨後のたけのこのように上映されてたC級H系お笑い映画を再現したといってもよいような作品だった。

BY TAKA(4月9日)


La vida de nadie / ラ・ビダ・デ・ナディエ


監督:Eduard Cortes
出演:Jose Coronado, Adriana Ozores, Roberto Alvarez 他


エコノミストとしてスペイン銀行に勤めるエリートのエミリオ・バレーロ。妻のアガタ、息子のセルヒオと共にマドリード郊外の一軒家に住む幸せそのものの家族。と誰もが信じていたことが実はエミリオの創り上げた虚偽の生活以外のなにものでもなかった。日がな時間をつぶし、家族友人から集めたお金を流用、虚偽のエリートマンを演じていたのであった。
あるとき、友人ホセの家でベビーシッターをする学生のロサーナに心を奪われ、スペイン銀行が出す奨学金受給のために手を貸してあげるなりゆきになってしまう。ロサーナとひと時も離れたくないエミリオは無理なことを承知で嘘の上塗りをしつづけ、ついにその実像を見破られてしまう。。。

この作品は実際に1993年にフランスで起こった事件を元にしているのだが、奇しくもフランス制作の同じ題材の映画が公開されている。地元フランス産の「L'adversaire」は、主人公が20年近くも医者と偽り妻子、両親、友人を欺きつづけ、隣人の元妻と不倫に走り、最終的に嘘をつき通すことができなくなり、両親妻子5人を殺害、自らの生命をも断とうとして失敗しまう。この作品では実話に忠実にドキュメンタリーに近いタッチで描かれている。ちなみにこの信じ難い事件の犯人であるジャン・クロード・ロマンは現在服役中らしい。

「La vida de nadie」は実話を元にしているとはいえ、人物像を新たに練り直し、いやになるほど人間臭い物語に作り変えている。スペインのにおいがぷんぷんしてくるところはおフランスの香りとは全く違う。
まず何といっても主人公のエミリオが明るく饒舌で悩める様子が全くなく、かなりノー天気。演じるホセ・コロナドの脂ぎったにやけ具合も太陽いっぱい、湿っぽさのないこの国にぴったりである。また、アガタ役のアドリアナ・オソレスが「うちのだんなさんってホントにステキなんだからっ。」って無邪気に言ってのけちゃったり、両親が「いやぁ、うちのはよくできた息子で〜。」とべたぼめしちゃうのも、もっちろん、スペイン的なんである。
脚本にけちをつけるつもりはないんだけど、あまりにも笑えちゃうので、ちょっとつっこんでみると。。。友人ホセの家のベビーシッター、ロサーナに言い寄るシーンは三文小説、お昼のワイドーショーなんだな。とってもつらい、っていう表情をしながら、夫婦仲がうまくいってなくって、さみしくって、僕はもうだめなんだよ、って同情を誘おうとするのだ。映画館にいなかったら「でたよ〜」といって大笑いしてたと思う。(とりあえず、笑い声はおさえた)そしてロサーナにキスする場面では、うぎゃ〜と叫びたい気分になってしまった。(のどをかきむしるようなゼスチャーをしたくなる気分、といってもらえばわかるだろうか。。。)舌がべろんちょんと出てきて、無垢な女の子を「手篭め」にするような感じ。やっぱり、ホセ・コロナドはホワイト・カラーの役は似合わない。どうも汗臭さが漂っているような気がする。とはいっても次から次へと嘘をつき続けるのが妙にはまっていて、次はどんな風に言い訳するんだろうな、と期待してしまう。その嘘や言い訳がどんどん薄っぺらになっていき、最後には「本当に自分自身の存在を感じられる」相手であるロサーナにのめりこみ、真の姿を暴かれる。
最初についた小さな嘘がどんどんと膨らんでいき、転がりはじめてとめられなくなったらどうするか。嘘で固めた人生の一部分である自分もやはり偽りの存在であり、嘘がなくなった時点で自分の存在も消滅してしまう。偽りのない愛だと信じた瞬間から砂上の楼閣は崩れ始める。真実の愛は残酷にも自らを否定する凶器へと変貌してしまうのである。

かなり軽い作風に仕上がってはいるが身につまされる想いをする人々が結構いるのではないか、と思う。会社を首にされても家族に言うことができず、毎日会社に行くふりをしているお父さんたちがいることも現実問題として存在する。ちょっとした見栄っぱり、ばれるはずのないちょっとした嘘がとりかえしのつかない方向へ発展していってしまうというのも映画の中の世界だけではないのだ。1年ほど前だったかやはりフランスの「L'emploi du temps」という映画で、会社を首にされた中年男が家族に言うことができずに、会社に行くふりをし投資という目的で友人から集めた金を給料として渡しつづけ、苦悩の果てに事実を告白する、というものがあった。この作品も実は先の事件をモチーフにしていたものだと後になって知り、三者三様いろいろな描き方があるものだ、と感じた次第だ。

だいたい嘘をつくことが苦手な(嘘をつけないのではなく、ついてもすぐばれる、という意味で)私としては、どんな風にうその重ね着をしていくのか、という点を意識してみていたのだが、やっぱり、つらの皮があつく、ちょっとやそっとのことでは動じないだけの心臓の持ち主で、しゃべることが上手でなければならない、という単純な結論に達した。こういう嘘をつこう、どうやったらつじつまをあわせられるか、などと前もって考え、どきどきしている私のような小心者の人間にはできないことだわね、と何度も頷いてしまった。

さて、この作品、公開される前からすでに先日のゴヤ賞にノミネートされていたことからも、ずいぶんと評価されていたことがうかがわれる。アガタ役アドリアナ・オソレスとロサーナ役のマルタ・エトゥラがその対象であったわけだが、残念ながら受賞するまでには至らなかった。このマリア・エトゥラは昨年「Sin verguenza」でその存在を世に知らしめ、今年に入ってからはフアン・ディエゴ・ボットと共演した「13 campanadas」で好演。幼さの残るナチュラルな美しさがとても新鮮な24歳である。役の上とはいえホセ・コロナドの相手をさせられたのはあまりにも気の毒と感じたのは私だけであろうか。。。
また、監督はエドゥアール・コルテスで脚本も担当。長編は2作目となるが、1作目はTV用サスペンス映画でロール・ゲームを題材にした質の高い作品であった。「La vida de nadie」は制作側からのオファーによってメガホンをとることとなったのもうなずける。観客のどきどきするツボをよく心得ている。

結果的にはひとつの物語としてまとめすぎてしまった感はあるが、あとでひきずるような重さがなくコメディーの要素も十分に含んでいてなかなか面白い、といえると思う。

BY TAKA(3月23日)


La gran aventura de Mortadelo y Filemon / モルタデロ&フィレモンの大冒険


監督:Javier Fesser
出演:Benito Pocino, Pepe Viyuela, Dominique Pinon, Mariano Venancio, Berta Ojea, Janfri Topera 他


モルタデロ&フィレモン。40年以上も前にフランシスコ・イバニェスの筆によってこの世に生を受けた人物。シークレット・サービス「TIA」の局員として活躍(?)するモルタデロとフィレモンの2人が奇才ハビエル・フェッセルによって生身の人間としてスクリーンに登場する。

TIAの研究室ではバクテリオ教授がなんやら不思議な実験を繰り返し、今世紀最大の発明を完成させる。その名もDDT、軍隊士気喪失機。ところが、その重要な発明品をこそ泥にもっていかれてしまうからさあ大変。局長のスーペルはこのお宝を取り返すべく、モルタデロとフィレモンを追跡に赴かせる。が、2人に信用をおくことのできないスーペルは特別捜査官フレディを任命、DDT奪還をもくろむ。
さて、そのDDT、こそ泥との取引によって悪名高き独裁者ティラノの手に渡るという情報が手に入る。フレディの潜入捜査、駆け引き、裏切り、そして、ついにはティラノの実の息子であるというモルタデロ、その母、フィレモン、秘書のオフェリアがティラニア国に送り込まれる。。。

原作者イバニェスが、これこそ我がモルタデロ&フィレモンである、と絶賛したハビエル・フェッセル監督の第2作目は何十年にもわたってスペインの子供たちに読まれてきたコミックの映画化。
このコミックを読めば一目瞭然、アニメならまだしも生身の人間によって映画化するなど不可能といわれてきた。もちろん、登場人物の特異性もあるが、コミック独特の表現方法がどの程度まで実現可能か、といった疑問もあったからだ。
特殊効果の発達によって不可能なものはないという錯覚に陥りがちだが、実は次元が同じであるという条件がついていることを忘れている。映画の世界は人間が存在する3次元の世界。コミックの世界は2次元である。また、映画は動画であるが、コミックはもちろん静止画である。静止画像で面白おかしく見せているものを動画にし、さらに3次元におこすことによって何らかの歪みが出てきても不思議ではない。観客に疑問を抱かせないように特殊効果をいかに上手く扱うかというところに興味が集中しているといっても過言ではない。
ところが、特殊効果、デジタル映像全てを駆使した技術分野は針の穴ほどのすきもないほど完璧に仕上がったすごいものであった。いやはや、驚いた。スペインの技術をいままで馬鹿にしすぎていたとちょっぴり反省。違和感を全く感じさせることなく、コミックの世界が展開されているのである。

また、コミックの映画化と言われるが、実際はコミックに描かれている登場人物を使ったオリジナルの物語である。そして、「モルタデロ&フィレモン」の登場人物だけではなく、イバニェスの描いた「Rompetechos」「Rue 13 del Percebe」という他の2つのコミックの登場人物も一緒くたになって出てくる。話の大筋には関係ない人々が大勢、ああでもないこうでもない、これでもかこれでもか、と押し寄せてくる。誰もがとんでもない個性の持ち主で、あまりにも強烈、ハンマーで頭を殴られて自分が飛んでいってしまいそうであったぞよ。
そう、話の大筋はたわいのないものである。ハビエル、ギジェルモ・フェッセル兄弟によるオリジナル脚本なんだが、人物自体の面白さを抜いたら、ただのどたばた、である。前作の「Milagro de P.Tinto」の意表をつく想像性にくらべたらなんとお粗末なことか。ただ、次から次へとドッカン、キュー、ヒュルヒュル、ドッカーンとやられる上にテンポの速いセリフ(それがまた聞き取りにくい)が繰り出されるとこっちのテンションは高まる一方、あきることなくラストまで持っていかれる。
見終わった直後の感想。「。。。?。。。?。。。疲れた。。。」。「モルタデロ&フィレモン」のコミック世代の友人の感想。「あんまり好きじゃない。。。それによく理解できなかった。。。」。

さて、この作品の制作は極秘で進められていたのだが、“「モルタデロ&フィレモン」がやってくる!!”と大々的にスポットが流されるようになって、「いったい、誰がモルタデロとフィレモンを演じているのだ?」とここそこで聞かれるようになった。宣伝効果を狙うため、かなりの期間、役者の経歴が秘密にされていた。そして公開直前、モルタデロ役のベニート・ポシーノが姿をあらわし、地のままでモルタデロそっくりであることが世間の目にさらされたのである。彼の本業は郵便局の職員。郵便局の窓口で切手を売ったり、書留を受け付けたりしているごく普通の人なのだ。副業として“映画出演”(通行人とか群集の一人とか死体の役とか)したことはあるらしいのだが、あくまでも趣味の範囲を超えていなかったらしい。それが、一躍スターとなってしまったのだ。小さい頃からモルタデロにそっくりであったために、「モルタデロ、モルタデロ」とからかわれたこともあるとか。これを機会に役者に専念するかどうかについては未定、なんだそうだ。
フィレモン役のペペ・ビジュエラは、コミック通りにボタンがはじけそうなピチピチのワイシャツにやっぱりこれもタイトな赤のスラックスを着こなし(?)ばかばかしい役をくそまじめに演じてる。彼は前作にも出演しているし、他の映画にも顔を出すプロの役者ある。
この2人に対抗するフレディ捜査官はフランスのジャン−ピエール・ジュネ監督のお気に入り俳優であるドミニク・ピノン。「デリカテッセン」や最近では「アメリ」でストーカー的な男の人を演じていたのでご存知の方も多いはず。彼自身がいかに漫画ちっくであったかがこの作品に出演したことでよ〜くわかってしまった。(私の中では“妙な奴”とのレッテルが貼られてしまった)

映画全体を見てみるとなんとなくまとまりのない大作、という印象があるのだが、ハビエル・フェッセルという人のすごさを感じ取ることはできる。もちろん、彼の短編や前作などの評価は絶大であるし、彼の作風を真似するような人も出てきていない。もちろん、真似するようなことは不可能だとは思うが。彼の経歴を見てみると、映画を撮る前はスポットCMを手がけており、相当な数をこなしていたらしい。そこで鍛えたのか、ワンシーン毎に観客の興味をひきつける法を心得ている。リズムとタイミングの良さ、洗練されたセンスは彼独自のもの。
ぜひ、スペイン映画らしくないこのスペイン映画を見て欲しい。何をいっているか分からなくても映像をみているだけで、十分楽しめるから。

BY TAKA(2月28日)


2002年度ゴヤ賞発表

先週の土曜日に行われた2002年のゴヤ賞の発表。
毎年のように国営放送TVEによって発表の模様が映し出される。今年も例年のごとく、場にそぐわないちょっといただけない司会進行によって3時間あまりのお祭り騒ぎが続いたが、それとは全く別の問題が数日たった今もくすぶっている、というかさらに波紋は広がっている。一視聴者としては、理解できるけどちょっとやりすぎじゃない?と思ったほどであったのだから、これに直接かかわる人たちにとってはただ事でなかったであろう。ま、これについては後述するとして、本題にもどろう。

2002年のスペイン映画界は冬の時代とも形容されるほどお寒い状況であった。制作された映画の本数は激減、観客動員数は前年の半分、大ヒットと呼べる作品はなく、せいぜい、まぁ検討したね、程度のものが数本あっただけであった。何十年も前の日本の映画界を見るようであるが、斜陽の一途をたどると、それを回復させるためには何十倍ものエネルギーを必要とすることが明らかであるのに何の対策もとられないまま先送りとされている。フランスのように自らの文化である映画を守るため国をあげて保護政策をとらないといけない、とここ数年念仏のように唱えられてきているが実現していないし、する気配すらみせていない。

さて、2002年のゴヤ各賞のノミネートではペドロ・アルモドバルの「Hable con ella」とフェルナンド・レオンの「Los lunes al sol」が優勢、それ以外ではエミリオ・ラサロの「El otro lado de la cama」が食い込んできていた。
この3つの作品、それぞれ全く違うジャンルであり、一長一短、どこをどのように比べるかというのが大変難しい。不思議感覚を楽しみたいのなら「Hable con ella」、社会派をお好みなら「Los lunes al sol」、単純に楽しい気分を味わいたいなら「El otro lado de la cama」、それ以外にサスペンスも好きだし人間ドラマも好きという人には「En la ciudad sin limites」などなど。
結果的には「Los lunes al sol」が主要5部門を独占、ゴールデングローブ賞外国作品賞を受賞した。「Hable con ella」は最優秀オリジナル音楽部門での受賞のみにとどまった。この結果を予想していたのか、アルモドバル監督は授賞式に欠席。
最優秀主演男優賞にハビエル・バルデム、最優秀助演男優賞にルイス・トサール、最優秀新人男優賞にホセ・アンヘル・エヒド、そして最優秀監督賞にフェルナンド・レオン監督、最優秀作品賞に「Los lunes al sol」と目立つ部門は総なめという状態であった。妥当なところであろう。
最優秀主演女優賞にはメルセデス・サンピエトロ。出演作は「Lugares comunes」というアルゼンチンとの合作で、同賞を昨年のサン・セバスティアン映画祭でも受賞している。私の中では、アルゼンチン映画にスペイン人女優が出演したという位置付けであったのだが、どうも違ったようだ。どのように合作映画を分類するのであろうか。細かいことは別として、この作品は老年期にさしかかった夫婦の愛情をしっとりと描いた物語である。「Martin (Hache)」などでも高い評価を受けているアルゼンチンのアドルフォ・アリスタライン監督の作品。
最優秀助演女優賞には「En la ciudad sin limites」に出演したジェラルディーン・チャップリン。今年はこの賞に値する女優がいるのか?という疑問が頭をよぎったが、ノミネートの4人を探すのは難しい作業だったのではないか、と個人的には思っている。
最優秀新人女優賞には「Rencor」に主演した歌手のロリータ。彼女に新人賞というのもおかしな話だが、日本語に訳した場合に一番はまるのが「新人」という言葉なのであえてそう呼ぶが、スペイン語でいう「Premio mejor Actor / Actriz revelacion」とは映画に出演したことがあっても大した評価を与えられていなかった無名の役者がいきなり顕著な活躍をした場合に贈られる賞である。また、ロリータのように歌の世界ではベテランだが映画の世界では新人に近いという場合もあてはまる。ちなみにノミネートはされていなかったが、彼女の妹ロサリオはアルモドバルの「Hable con ella」に出演している。
前評判だけが高く映画自体は面白くもなんともなかったフェルナンド・トゥルエバ監督の「El embrujo de Shanghai」は衣装、ヘアメーク、美術3部門とお金をかけた部分で受賞。
最優秀新人監督賞は「Smoking Room」のフリオ・ワロビッツ&ルジェ・グアル。作品は一般からの評価も非常に高く公開劇場数が徐々に増えていったという特異なかたちでロングランを続けた、金をかけずに中身で勝負したヒット作。
最優秀ヨーロッパ映画賞はロマン・ポランスキー監督の「ピアニスト」。最優秀外国映画(スペイン語)賞はウルグアイのディエゴ・アルスアガ監督の「El ultimo tren」。この作品の主演3人はスペインでも有名なアルゼンチン俳優。おじいちゃんたちが自分たちの大切な大切な機関車をアメリカに売リ飛ばされないように、と機関車をのっとって走らせちゃう、じーんとくるようなお話。

どのような映画、役者が賞をとるかというのもひとつの興味ではあるのだが、式次第がどれほどばかげているかをみて批判することも私の中での楽しみのひとつになっている。 毎年、その年度で活躍した役者を司会者に持ってくるのだが、その役者にやらせることといったら、情けなくなるほど会場がしらけきってしまうような台本なのだ。映画界のプロを前にそれなりの役者がなぜあのようなピエロを演じなければならないのか、不思議だ。小学生の頃の学芸会を思い出す。
さらに今年はその台本におっきな爆弾が隠されていた。のっけからマリサ・パレデス・スペイン映画アカデミー会長が読み上げた開会の辞に「戦争反対」がはっきりと含まれ、この式に出席していたほぼ全員の俳優や監督、映画関係者が「contra a la GUERRA (戦争反対)」のバッジをつけていたのである。
また、昨年11月に起きたタンカー沈没によってガリシアの海岸が重油で汚染され続けているにもかかわらず政府の対策が後手後手にまわっていることへの批判も飛び出し、、長編ドキュメンタリー部門で受賞した「El efecto Iguazu」の受賞後挨拶の中では、Sintel問題(この作品の題材であるスペインの某大手電話会社から切り捨てられた何百人もの失業者たちが労働省の前の大通りにバラックを建て、何百日もたてこもって政府の無策を抗議した)がいまだ解決していないことを声だかに主張する者もでてきた。
この批判に共通すること、それは政府が全くの悪者にされていることである。「戦争反対」、これはアスナル現政権が米国の主張するイラク攻撃に追随する態度をとっている事への批判であり、2度とこのような重油汚染で国民が苦しむ事のないようにという「Nunca mais」は腰の重い政府よどうにかしてくれ、という主張であり、Sintel問題は2枚舌政府の隠しておきたかった部分をさらすものであるわけだ。
このような真っ向から反政府を掲げる主張を政府の御用テレビ局であるTVEでやってしまったことで大きな波紋を広げてしまったのだといえる。映画アカデミーが「表現の自由」と言い訳をしているのもうなずけるが、好ましくないことである、という自覚はあったのだとおもわれる。数日前にTV局に提出された台本には未定となっていたという。もちろん、映画アカデミーは教育省に属する団体であるため、何を行うかということを事前にもらせば政府につつぬけ、お上に都合が悪いことであれば教育相から圧力がかかることは自明の理である。それゆえ、本番まではふせておいたというところであろう。
マリサ・パレデス会長辞任要求まで噴出したがアカデミー側が全面的に会長を支持し、全ての責任はアカデミー全体にありとしてこの問題に蓋をしてしまおうという方向に向かっている。

確かに国民のほとんどが思っていることを口にしただけというところなのだろうが、TVEでやったのがいかんかった。TVEは映画制作の際に大量の資金を提供しスペイン映画を活性化させるよういろいろなプログラムも組んでいる。パトロンにはむかうようなことをしたらまずいよなぁ、とまぁ、番組を見ながら思っていたわけだ。
ちょっとばかり話題が政治的なほうにより過ぎたので修正。お昼の奥様番組みたいな方向へ転換。

このゴヤ賞の授賞式には司会者以外にもプレゼンテーターが各賞に用意されている。有名な俳優さんたちが続々と出てきてプレゼンテーターをするのを見るのもちょっとした楽しみだ。ほんの1分ほどしか舞台にいないのだが、この間をどのようにしきるか、とかどんな服装をしているか、とかね。だいたいにおいて男優さんのファッションというのはそれほどとやかくいうようなものじゃない。ダークスーツとかが多いから。問題は女優さん。若い方で行くとパス・ベガが背中のぱっくり開いた、お尻がみえそうなドレスを着てたのが印象的で、ベテランの方ではテレレ・パベスの真っ赤な肩のあいたドレスがすごかった。何せこの女優さん、見たことがある人なら分かってもらえると思うが強烈である。もちろん太っているんだけど、いつも意地悪ばあさんみたいな役で強烈なだみ声、ドレスとは無縁のような人なんだわ。それがまぁ、プレゼンテーターに指名された歓びをすべてドレスに詰め込んだみたいだった。でも、あの潔さが好き。
しきり上手なのはあいかわらず、サンティアゴ・セグーラやグラン・ワイオミング、アントニア・サンフアンなど。これらの人々は頭の回転が速い上にアドリブがうまいために見ているものをうまく引き込むことができる。これは毎年のことなのだが。
最後に発表となる最優秀作品賞のプレゼンテーターとしてでてきたのが、アレハンドロ・アメナバル監督とペネロペ・クルス。あらまぁ、ペネロペちゃん、スペインに帰ってきたのねぇ、と驚いた。その服装たるや、豪華絢爛、それに帽子をかぶってパラソルをさせば、アスコットご鑑賞という感じ。じゃらじゃらした首飾りを見たら、なぜかマリーアントワネット時代の「首飾り事件」という言葉が頭をよぎってしまった。そしてセリフは「ゴヤ賞は、Los lunes al solです」というワンフレーズのみ。う〜ん。わざわざこのためにスペインにやってきたのか、なんかの仕事のついでか、それともバケーションか。よくわからん。スペイン人女優でありながら、ハリウッドの人なのですよねぇ。ハリウッド女優ではなく、ね。トム・クルーズの彼女っていったほうがいいのかなぁ。でもさ、アメリカに住んでてもいいからさ、スペインの映画にもどってきてよっ、って真剣に思ってしまった。そ、隣に無表情でたっていたアメナバルさん、ペネロペちゃんをくどいて主役にすえてみてはいかがかしら、ね?

毎年何かしらのメッセージが全面に出るゴヤの授賞式なのだが、スペイン映画の1年を締めくくる行事という意図からはずれた(勝手に騒ぎ立ててるという見方もできないではないが)式となるとは意外であった。 BY TAKA(2月7日)