((((( | Spain Nandemo Jouhou | ))))) |
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今スペインでどんな映画がはやってるのか、
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★スペイン映画界注目の俳優さんたちをこちらで紹介してます。★
監督:Vicente Aranda 出演:Paz Vega, Leonardo Sbaraglia, Antonio Dechent, Maria Botto 他 |
1830年、スペイン、アンダルシアの山中、フランス人の作家プロスペル・メリメは“おたずね者”ホセと遭遇。警戒するホセに食事を与え、出会ったことは口外しないと約束する。それから後、メリメは怪しく美しいジプシー、カルメンに誘われて行き着いた家でホセと再会、最後は牢獄で死を待つホセをたずねることとなった。そこで、ホセの自己破滅の物語を聞かされるのであった。。。 ナバーラ出身のホセはセビージャのタバコ工場につめる衛兵隊長として勤務していた。ある日、女工同士の喧嘩で相手を傷つけたカルメンの牢獄送りの護衛を命じられた。ところが、連行中にカルメンに篭絡され逃げられてしまう。この不始末に格下げとなったホセの元にまたもやカルメンが現れる。カルメンに溺れていくホセは、自分のものにしたい一心で自らの上官を殺し、山賊となり、カルメンが関係していく相手を次々と手にかけていく。。。 「カルメン」。オペラで何回となく上演され、映画化もされてきた古典ともいえる物語。誰しもカルメンといえば、情熱的で男をたぶらかす才に長けた魔性の女である、というイメージを持つ。ところが、このイメージはいわゆる“たぶらかされた”ホセの証言をもとに小説として仕上げたフランス人作家の視点で創り上げられたものなのである。さらに、オペラ化、映像化される過程でかなりの脚色が加えられたために原作から離れたステレオタイプの「カルメン」が定着してしまったというのが現実であろう。今までの「カルメン」とは別に、原作により近い形で映像化し、ビセンテ・アランダ流に解釈した作品が今回の「カルメン」である。
ビセンテ・アランダは言う。「カルメンは服を着ていても脚を開いている女。男はカルメンの道具でしかない」と。使える男と使えない男を瞬時にかぎ分け、自身を投げ出したかのように見せ、瞬く間に自らの僕へと変えてしまう。自らの肉体を道具として使ったとしても彼女自身が人に使われる道具となることはない。命令されること、縛られることを嫌悪し、拒否する。
この残酷性を備えた自由奔放な女を可能な限り強靭に、またエロチックに描いたビセンテ・アランダ。そしてそれを演じたパス・ベガ。女優を意のままに演じさせる力量はベテランのなせる技であるが、それに応じたパス・ベガも引けをとらない。「Lucia y Sexo」で一気に世の注目を浴び、その年のゴヤ新人賞を獲得後、「Solo mia」をはさんで本作品の出演となったわけだが、当初、ビセンテ・アランダが描いていたカルメン役は別人であった。前作「Juana la loca」で好演したピラール・ロペス・デ・アジャラにオファーしたところ断られ、ペネロペ・クルスに打診するも拒絶の憂き目にあい、結局パス・ベガに落ち着いたということである。前作同様、彼女の脱ぎっぷりは潔い、のだが、そのことが彼女の女優としての質を貶めないことを願うばかりである。
その他の点では、舞台設定、衣装、色の使い方は素晴らしいので是非注目してほしい。その場の熱気が伝わって来る上に、葉巻の香りや人々の汗の匂いまでが感じられる。特にオープニングでのタバコ工場での女工たちの姿は圧巻。 さて、今回のカルメン、新たな発見があったのだろうか。アランダなりの新解釈があったのだろうか。決して私がいろいろな「カルメン」を見てきたわけではないが、特に驚くような解釈の相違というのはないといえる。ただひとつ確信したのは、カルメンという種類の女は時代を超えていつでもどこにでもいるものなのだ、ということ。現代の犯罪報道で“世紀の大悪女”などと冠がつくのはこのカルメンと似たりよったりなのだから。犯罪に手を染めないまでも、女性なら一度くらいはカルメンのようにあまたの男をなびかせ手玉にとってみたい、とおもうのではなかろうか。少なくとも私はちょっぴりうらやましい、と思ってしまった。 最後に、ビセンテ・アランダの得意とする女の性を全面に押し出した作品だったにもかかわらず、男の情けなさばかりが強調される作品になってしまったのは残念。鳴り物入りの『ビセンテ・アランダの「カルメン」』だからきっとすっごい毒気なんだろうな、と期待した割にそれほどでもなく、あまり余韻を楽しむという感じでもなく、中途半端な気分にさせられてしまった。 BY TAKA(10月10日) |
監督:David Serrano 出演:Ernesto Alterio, Alberto San Juan, Natalia Verbeke, Maria, Esteve, Pere Ponce 他 |
長い長い夏休みも終わり、やっと映画市場も活気を帯びてきた様相。先週末からサン・セバスティアン映画祭も始まり、閑散としていた映画館にも人が戻り始めた。
スペイン映画界では観客動員数の下降が言われつづけているが、作品の質そのものが落ちてきたわけではない。映画の年間製作本数の減少は否めないが、小粒ながらも良質なものや若い監督の勢いのある作品が散見される。今回紹介するのもそんな作品の一つ、「Dias de futbol」。
晴れてシャバの空気を吸える身分となったアントニオを待っていたのは地元の友人たち。アントニオの妹ビオレタにプロポーズするも色よい返事をもらえないホルヘ、シンガーソングライターになる夢を捨てられない警官のミゲル、妻カルラの妊娠にとまどうラモン、いつまでたっても売れない役者のチャーリー、女にももてず大学も卒業できないゴンサロ、どいつもこいつも30過ぎても煮え切らないやつばかり。
昨年、大した前評判ないままに公開されたにもかかわらず、意外なまでの好評を博し、何ヶ月ものロングランを続けたミュージカル映画「El otro de la cama」。この脚本を担当したダビ・セラーノが念願かなって監督として再度脚光を浴びることとなった。
この作品を一言でいうと、コメディーに徹したコメディーである。どこにでもいるようなスペイン人たちの寄せ集めをちょっと大げさに描いて笑わせる、現代スペインコメディーの王道ともいえるもの。頼りない男性陣とは対照的に強く手ごわい女性を配したのは“自分が男だからかな?”という監督の説明による。(28歳の監督の女性像ってこんなすごいものなのか???)警察官のだんなをせせら笑い、尻にしきまくる妻(普通警察官というのはマッチョな人が多いといわれているんだが)、マニュアルどおりに口説こうとする男に対して、まだるっこしいとばかりに「さぁ、やるよ!」と誘う女、30男を全くの子ども扱いする母親。異議を唱えることもできないでついていく男供の背中は寂しさが漂う。 さて、この作品の面白さって何かというと、すごく笑いの幅が狭い、ということだ。幅が狭いというより対象とする範囲が狭いといったほうがよいかもしれない。スペイン語を理解し、スペインに住んでいる人(というかマドリードといったほうがよいかも)が日常的に何気なく耳にしている、目にしているものを取り上げ強調することによって、自分にあてはまるかも、とか自分の周囲にありがちなことっていうのを再認識させて笑いを誘っているといえるから。レアル・マドリードのユニフォームを着てる奴もいれば、アトレティコのエンブレム入りのパジャマを着てる奴もいる。いまどきはやらないよっていうようなボタンのいっぱいついた時計をしてる奴もいる。そうそう、短パンの裾をわざわざ中に入れ込んで半ケツ状態にする奴もいたっけ。さりげない描写ひとつひとつにいっぱい意味が含まれている。細かいところでは「ブラジル」の対戦相手の名前も結構工夫してしゃれているので要チェック。
出演者にしても芸達者な人たちでいっぱい。アントニオ役のエルネスト・アルテリオは年を重ねるごとに魅力的になってきている。目の周りの皺もちょっと増えて、最近は父親のエクトル・アルテリオに似てきたなぁ、と感じることが多くなった。そして今回強調したいのがマリア・エステベ。ラモンの妻のカルラ役で出演しているが、前回同様かなりおかしな役、というか彼女の役どころはいつも偏執的。自分の世界に入り込んで滑稽この上ないのだが、それがまた魅力となっているともいえる。いってみればアメリカのTVシリーズ「フレンズ」のフィービーみたいなもんと思っていただければよろしい。前回の「El otro lado de la cama」で、もちろん歌い踊っていたのだが、この人、両親からもらった遺伝子どこに行っちゃったの?って思わせるような代物だった。そう、彼女の父親はかの有名なアントニオ・ガデス母親はスペインの美空ひばり(と私が勝手に呼んでいる)マリソルなのに。スペインの男性が欲してやまない金髪、碧眼女性でありながらちっとも美人じゃない彼女、正統的な役はちょっと無理なのか。だんなをその気にさせるのに赤い下着をつけて迫るシーンも色気が欠けてて彼女らしい。 2作続けて楽しい作品を世に送り出したダビ・セラーノ。彼は、「政治的なメッセージを含んだ映画は苦手、みんなが楽しんでくれる作品を作りたい」という。既にその思いは達成されている、といえるだろう。これからの作品にも期待したいところだ。 BY TAKA(9月26日) |
Atraco a las tres ... y media /銀行強盗、3時。。。半
監督:Raul Marchand 出演:In~aki Miramon, Manuel Alexandre, Josema Yuste, Cristina Sola 他 |
2001年12月、ユーロ完全導入を前にプレビソール銀行がドイツのブレーメン銀行に吸収された!マドリードのとある支店の副支店長のデルガドは新しくやってきたドイツ人社長オットーの権力をかさにきて、支店長のドン・フェリペを追い出し、行員全員を年内いっぱいでお払い箱にするという。 いきなりのお達しに右往左往する行員たちの中でただ1人、出納係のガリンドが仕返しをしてやろうと行員たちをそそのかす。ガリンドの持ち出した案とは、自分たちの銀行を襲撃しよう、というものであった。尻込みをしていた仲間たちも徐々にその気になり、着々と計画を練っていくが。。。 1962年に今は亡きホセ・マリア・フォルケ監督によって公開された「Atraco a las tres」のリメーク。ラウル・マルチャンによって焼きなおされたクラシックコメディーは時代の移り変わりを取り入れたユーロ版。前作ではまだまだ若かったマヌエル・アレクサンドレが今回は人の良い支店長ドン・フェリペになって戻ってきている。
一般的に映画界でオリジナル版よりリメーク版のほうがよかったということはないと思ったほうが良い。だいたいオリジナルがたいしたことのない作品だったらリメークしようという気にはならない。逆にいえば、オリジナル作品が素晴らしいからリメークを世に出したいと思うのだ。ということは、よっぽどの隠しだまがない限り、オリジナルを超えることには無理がある。リメーク版をひとつの作品としてみるなら別だが、まず両作品を比較してみたくなるのが人の子というもんである。
おそらくオリジナル「Atraco a las tres」を見ていなかったら、別にこの作品に特別な興味も抱かなかっただろう。でも、この40年も前のしろもの、白黒で映像もいまいちのものを見てしまっていたんだな、これが。すごいクラシックだと思ったのだけど、罪のない無邪気な人々たちがすごく魅力的だった。その当時、なんのハイテク機器もなくってとにかく知恵を絞りに絞るっていうところがかわいくて、その上とにかく高圧的でゴマスリ人間のいやな上司にどうやってぎゃふんと言わせるかっていうところが重要だった。それも銀行からお金を盗むんではなく、銀行に強盗しにくるという肝っ玉ぶりがよかった。最後のひねり方もその当時の世相を反映したようなもので、ふ〜ん、そうくるか、であった。 出演者をざっと見渡すと、結構TVドラマ系の役者さんが多い。以前ははっきり色分けされていたのが、最近はTVと映画がボーダレスになってきた。その中でガリンド役のイニャキ・ミラモンはホセ・ルイス・ガルシ監督の「You're the one」で好演したことが記憶に新しい。そのガリンドがべたぼれしちゃう宝くじ番組のモデル役のエルサ・パタキはTVドラマ出身であるにもかかわらず、映画やCMでしかお目にかかれなくなってしまった。(ますます色っぽく美しくなってきていておじさんたちの鼻の下がのびるのも理解できるところ) なんか、中途半端に前作を踏襲してしまったのが映画全体に響いてしまった感じがする。どうせならもっと斬新にしても良かったのに、と思う。最終的に、お間抜けな彼らが大金を手にできたのか、という点については口をつぐんでおくが、この結末、私の望んでいたものとは違ってしまったということだけを付け加えておく。 BY TAKA(6月22日) |
監督:George Sluizer 出演:Federico Lippi, Gabino Diego, Iciar Bollain, Diogo Infante, Ana Padrao 他 |
ポルトガルの海岸、子供の頭ほどの石を波間に投げると何百メートルも先まですべって飛んでいく光景を目にした男、ジョアキム。木の棒で地面に描いた線を消そうと思っても消せない不思議な現象を体験したジョアナ。スペイン、エクストレマドゥラ、突然鳥の大群が頭上を飛び回り彼の行く先々に現れる状況におかれた小学校の教師ホセ。ただ一人だけ地面が揺れていることを知覚するアンダルシアのいなかで薬局を営むペドロ。 一方、イベリア半島とヨーロッパ大陸の境界であるピレネー付近に大規模な断層が発生、ついにはイベリア半島が大西洋にむかって動き始めたのであった。。。 全く関係のなかった4人はどこからともなくあらわれた犬のあとに続き旅を始め、たどりついた先は使っても使っても減らない青い毛糸を持つ農家の未亡人マリアの家であった。5人と一匹はこの信じられないような現実を自らの目で確かめるため、ピレネーにむかって旅立った。。。
ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマゴの小説「La balsa de piedra」の映画化。
メタファーで満ち満ちたこの物語は一本の糸が"選ばれた"者たちを引き寄せ、愛を語らせ、人間の内面奥底深くに内在する何かを探させる。何があるのか、何に気付くのか、旅という道のりが人を成長させていく。
この作品を制作するにあたって、特撮が随所で使用されているが、これに関してあまりよい評価がきかれない。資金繰りがうまくいかなかったなどととりざたされているが、決してちゃちなものではないといえる。どれだけお金を使って大規模な特殊効果を取り入れても現実的でなければ意味がない、というのが私の自論。ビル破壊現場、火事場、サイクロン、海難事故、etc、etcとわざとらしく主人公を窮地に追い込み、最終的には子供と犬と主人公が生き残ってめでたし、めでたしという金の使い方には疑問をはさむひねくれ者なので、さりげない特撮を取り入れているこの映像には好意を感じる。
最近のスペイン映画もエンターテイメントとしての要素が色濃くなってきているだけに、この作品を見ることで、とても考えてしまった。何かを考えたのではなく、考える、という作業をしたのである。何かに属すること、何かの一部分であること、が心のよりどころとなる、その前提が崩れた場合の喪失感によって考えるという機能がストップしてしまうのだろうか、本能がそれをおぎなってくれるのだろうか。。。 街角でこの原作を読んでいる人をみかけた。映画が公開された影響なのだろうか。大陸の一部分で生まれ育ったスペイン人やポルトガル人と違い島国育ちの日本人が同じ感覚を持つかどうかはわからない。でも、明らかに自分が揺るがされていることが感じられる。原作を早く読まなくてはという思いにかられている。 この作品は見るものによってそのスケールの大きさが変化する。私にとっては壮大な作品であったといえる。そして、大西洋上に浮かんだイベリア島。ビバ、イベリア! BY TAKA(5月29日) |
監督:Pablo Berger 出演:Javier Camara, Candela Pena, Juan Diego 他 |
アルフレドは百科事典の訪問販売員だがさっぱり売れず、家賃を滞納する始末。妻カルメンは子供が欲しくてたまらないのだが、とてもじゃないがアルフレドの収入と美容院でのパートとでは生活がなりたたず、子作り計画は先延ばしにされている。 そんな折、アルフレドの勤める出版者の上司が業績不振を打開するため、新たなる分野の開拓案を販売員たちに提示する。その案とは“夫婦の営みをフィルムにおさめてスカンジナビア諸国へ頒布する”というものであった。。。 テープ1本の破格の値段につられてアルフレドとカルメンはその案を受け入れることにし、せっせとテープ制作に励む。その結果、テープの爆発的な売上によって2人の生活は向上するのだが、カルメンは子供が授からないことを気に病み、病院で検査を受けることにする。。。 1970年代が舞台のこの作品、はっきりと“ポルノ”が物語の柱となっている。ただし、成人指定映画である“ポルノ映画”ではないことを断っておく。ちょっとHなコメディーというカテゴリーに属するとみてよかろう。
先週行われたマラガスペイン映画祭において、最優秀作品、監督、主演男優、主演女優賞を獲得したこの異色の作品、起承転結の起承まではなかなか面白い。アルフレドとカルメンの工夫をこらした自作テープの制作現場。まるで一昔前の日本のポルノ映画か?というようなお芝居が繰り広げられる。カルメンが花嫁姿や看護婦さんの衣装で登場したり、サッカーのユニフォームを着た女の子になったり、アルフレドがガスボンベの配達人で現れたり。素人の2人が初々しく濡れ場を演じるという光景が郷愁を誘うに違いない。今のスペインじゃ、一般のTVチャンネルで男女の局部丸出し交尾が流されててエロチックな感傷なんちゅうもんは一切排除されちゃっているんだから。
さて、このコメディで体当たり演技を披露したのはハビエル・カマラとカンデラ・ペニャ。ハビエル・カマラは昨年アルモドバルの「Hable con ella」で主役をつとめ知名度をぐんと上げたのでご存知の方も多いはず。人から評価されるほどの役者となることで今まで表にでていなかった輝きが一気にはじけたといったらよいのか、不思議なほどに魅力的な役者となっている。今回のアルフレド役では禿げていて、妙にいやらしい口ひげにぽってりした体、おじさん風の胸毛とどこをとっても普通のスペイン人ちっくで苦笑してしまう。 個人的にはこういう作品嫌いではないが、何かが足りないような気がしてならない。出演者の超がつくほどの好演に助けられて鑑賞に堪えうるものになってはいるがちょっと練りが不足していると思う次第である。映画を見終わった後の周囲の感想に耳を傾けてみると、みんな一様に「ハビエル・カマラは最高だね」という意見に終始していた。同感。 BY TAKA(5月10日) |
El sueno de Valentin / バレンティンの夢
監督:Alejandro Agresti 出演:Rodrigo Noya, Carmen Maura, Julieta Cardinali 他 |
1969年のブエノス・アイレス。バレンティンは8歳の男の子。小さいときに母親が出て行ってしまったまま、父親もたまにしか顔をみせないので彼の家族はおばあちゃんだけ。そんなバレンティンには2つの夢がある。将来は宇宙飛行士になること、そして、お父さんに素敵な彼女ができてあったかい家族をつくること、である。でも、お父さんの彼女はいつもとんでもないような女性ばかりでバレンティンをがっかりさせる。 ある日、お父さんの新しい彼女レティシアと会い、彼女こそ僕の求めていた人だ、と心をうきたたせ、お父さんのそして自分のことを話し始めるが。。。 アルゼンチンのアレハンドロ・アグレスティ監督が自らの幼少の頃のことを思い描きながらフィルムをまわした「El suen~o de Valentin」。この作品はアルゼンチン制作なので厳密にはスペイン映画の範疇には入らないのだが、スペインからカルメン・マウラも出ているのでご紹介を。
8歳という年齢のわりに大人びて、妙に聞き分けの良いバレンティン少年のナレーションで物語は進む。お母さんに甘えたい年でありながら、それもできず、おばあちゃんにがみがみいわれながら自分の空想の世界を無限に広げていく。宇宙飛行士になる夢、その当時、やっと人が月に降り立つことが可能になった時代。手作りの宇宙飛行士の衣装を着て家の中を歩き回り、遊びに来たおじさんに夢を語る。おじさん、おばあちゃんに「宇宙飛行士?宇宙飛行士はアメリカ人かロシア人しかなれないんだよ。」といわれたりする、そんな時代。
全てが大きな遠視用のめがねをかけたバレンティン少年の視点で語られる。なんともいえず心がほっくりしてくるような作品である。このバレンティン少年役のロドリゴ・ノジャは普段でも映画の時ほどではないが遠視用のめがねをかけとぼけた風貌でインタビューに答えたりしていて役そのもの。
アグレスティ監督もバレンティンの父親役でちょっと登場する。狂ったようにバレンティンを叱る場面のみなのだが、子供時代の監督の父親に対するイメージを強調した結果なのだろうか。 最後にちょっと蛇足。この作品、いうまでもなくアルゼンチン映画なので、アルゼンチンのスペイン語が話されている。スペインに語学の勉強をしに来たばかり、という方々にはこのアクセント、イントネーションがちょっとつらいかも。ちなみに、ジャ、ジュ、ジョの発音がシャ、シュ、ショになってしまうことが多いが、このバレンティン少年もella、llorarなどの単語を“エシャ”、“ショラール”と発音している。 長編作としてはちょっと短いけれど、ほのぼのとした気分に浸れるのは請け合い。特にラストは泣けてきちゃうようなかわいさがあってお薦めしちゃいます。このイースターの時期、時間が許せば映画館に足を向けてみるのはいかがかな? 注:アルゼンチンでの原題は「Valentin」ですが、近日中にスペイン作の同名の作品が公開されるため、スペインでは「El suen~o de Valentin」と題して公開されることとなりました。 BY TAKA(4月10日) |
監督:Jesus Bonilla 出演:Jesus Bonilla, Santiago Segura, Concha Velasco, Alfredo Landa, Antonio Resines, Gabino Diego 他 |
看護士のイニゴは死ぬ間際の患者に「モスクワの黄金」の話をささやかれ、患者のもっていた古い腕時計を手渡される。「モスクワの黄金」とはスペイン内戦時に共和国軍がモスクワに持ち出そうとして持ち出すことのできなかったお宝のことをさすらしい。マドリードの郊外にある教会の祭壇の下に埋められている、と解した2人は夜中にお宝捜しにでかけるが、成果がないまま戻ってくる始末。 ところが、ひょんなことからイニゴがもらった腕時計の中にお宝の隠し場所のヒントの一部分がはめこまれていることが判明。ヒントを解くには全く同じ腕時計が手に入らなければどうにもならない。 パペレスとイニゴだけのものであったはずの黄金が、時計を手に入れるごとにキャバレーで歌う年増の踊り子、その若きつばめちゃん、古時計商などに秘密がもれていき、取り分が少なくなっていく。。。 はてさて、一体この黄金、どこにうまっているのやら。この秘密を解くのは誰?そして、その黄金を見事に奪っていくのはパペレスとイニゴなのか、それとも。。。
主役ヘスス・ボニージャの監督デビュー作。クレジットされているメンバーを見れば一目瞭然、お笑いどたばた劇であること間違いなし。それもかなりまとまりのないB級作品、というのが予想されていた。全くその通り。お金を払ってみるべきものか。かなりの疑問が残る。
なぜ、この作品があまりおもしろくないのか。おそらく出演者が撮影の段階で仲間内で楽しんじゃったからだ、と思う。人に見せるためのものではなく、自分たちが自分たちを笑う自己満足の世界っていうやつ。そのうえ、これだけの面子を集められたんだぞ、俺ってすご〜い、というヘスス・ボニージャの驕りもあったのでは?適材適所、それなりのキャスティングという手順を踏まず、有名人をショーウィンドーに並べて満足だったのか。それと、ヘスス・ボニージャという俳優はずーっと画面に出ているべき人ではないことも再確認。彼はうどんにおける七味唐辛子、おでんにおけるからし、ぎょーざのラー油みたいなものなのだ。
あまり、良い点を挙げられなくて申し分けないのだが、嘘はつけないのでこのとおり。有名人俳優を見に行くのなら良し、時間つぶしとしてみるのなら良し、作品全体は語るに値せず。 BY TAKA(4月9日) |
La vida de nadie / ラ・ビダ・デ・ナディエ
監督:Eduard Cortes 出演:Jose Coronado, Adriana Ozores, Roberto Alvarez 他 |
エコノミストとしてスペイン銀行に勤めるエリートのエミリオ・バレーロ。妻のアガタ、息子のセルヒオと共にマドリード郊外の一軒家に住む幸せそのものの家族。と誰もが信じていたことが実はエミリオの創り上げた虚偽の生活以外のなにものでもなかった。日がな時間をつぶし、家族友人から集めたお金を流用、虚偽のエリートマンを演じていたのであった。 あるとき、友人ホセの家でベビーシッターをする学生のロサーナに心を奪われ、スペイン銀行が出す奨学金受給のために手を貸してあげるなりゆきになってしまう。ロサーナとひと時も離れたくないエミリオは無理なことを承知で嘘の上塗りをしつづけ、ついにその実像を見破られてしまう。。。 この作品は実際に1993年にフランスで起こった事件を元にしているのだが、奇しくもフランス制作の同じ題材の映画が公開されている。地元フランス産の「L'adversaire」は、主人公が20年近くも医者と偽り妻子、両親、友人を欺きつづけ、隣人の元妻と不倫に走り、最終的に嘘をつき通すことができなくなり、両親妻子5人を殺害、自らの生命をも断とうとして失敗しまう。この作品では実話に忠実にドキュメンタリーに近いタッチで描かれている。ちなみにこの信じ難い事件の犯人であるジャン・クロード・ロマンは現在服役中らしい。
「La vida de nadie」は実話を元にしているとはいえ、人物像を新たに練り直し、いやになるほど人間臭い物語に作り変えている。スペインのにおいがぷんぷんしてくるところはおフランスの香りとは全く違う。 かなり軽い作風に仕上がってはいるが身につまされる想いをする人々が結構いるのではないか、と思う。会社を首にされても家族に言うことができず、毎日会社に行くふりをしているお父さんたちがいることも現実問題として存在する。ちょっとした見栄っぱり、ばれるはずのないちょっとした嘘がとりかえしのつかない方向へ発展していってしまうというのも映画の中の世界だけではないのだ。1年ほど前だったかやはりフランスの「L'emploi du temps」という映画で、会社を首にされた中年男が家族に言うことができずに、会社に行くふりをし投資という目的で友人から集めた金を給料として渡しつづけ、苦悩の果てに事実を告白する、というものがあった。この作品も実は先の事件をモチーフにしていたものだと後になって知り、三者三様いろいろな描き方があるものだ、と感じた次第だ。 だいたい嘘をつくことが苦手な(嘘をつけないのではなく、ついてもすぐばれる、という意味で)私としては、どんな風にうその重ね着をしていくのか、という点を意識してみていたのだが、やっぱり、つらの皮があつく、ちょっとやそっとのことでは動じないだけの心臓の持ち主で、しゃべることが上手でなければならない、という単純な結論に達した。こういう嘘をつこう、どうやったらつじつまをあわせられるか、などと前もって考え、どきどきしている私のような小心者の人間にはできないことだわね、と何度も頷いてしまった。
さて、この作品、公開される前からすでに先日のゴヤ賞にノミネートされていたことからも、ずいぶんと評価されていたことがうかがわれる。アガタ役アドリアナ・オソレスとロサーナ役のマルタ・エトゥラがその対象であったわけだが、残念ながら受賞するまでには至らなかった。このマリア・エトゥラは昨年「Sin verguenza」でその存在を世に知らしめ、今年に入ってからはフアン・ディエゴ・ボットと共演した「13 campanadas」で好演。幼さの残るナチュラルな美しさがとても新鮮な24歳である。役の上とはいえホセ・コロナドの相手をさせられたのはあまりにも気の毒と感じたのは私だけであろうか。。。 結果的にはひとつの物語としてまとめすぎてしまった感はあるが、あとでひきずるような重さがなくコメディーの要素も十分に含んでいてなかなか面白い、といえると思う。 BY TAKA(3月23日) |
La gran aventura de Mortadelo y Filemon / モルタデロ&フィレモンの大冒険
監督:Javier Fesser 出演:Benito Pocino, Pepe Viyuela, Dominique Pinon, Mariano Venancio, Berta Ojea, Janfri Topera 他 |
モルタデロ&フィレモン。40年以上も前にフランシスコ・イバニェスの筆によってこの世に生を受けた人物。シークレット・サービス「TIA」の局員として活躍(?)するモルタデロとフィレモンの2人が奇才ハビエル・フェッセルによって生身の人間としてスクリーンに登場する。
TIAの研究室ではバクテリオ教授がなんやら不思議な実験を繰り返し、今世紀最大の発明を完成させる。その名もDDT、軍隊士気喪失機。ところが、その重要な発明品をこそ泥にもっていかれてしまうからさあ大変。局長のスーペルはこのお宝を取り返すべく、モルタデロとフィレモンを追跡に赴かせる。が、2人に信用をおくことのできないスーペルは特別捜査官フレディを任命、DDT奪還をもくろむ。
原作者イバニェスが、これこそ我がモルタデロ&フィレモンである、と絶賛したハビエル・フェッセル監督の第2作目は何十年にもわたってスペインの子供たちに読まれてきたコミックの映画化。
また、コミックの映画化と言われるが、実際はコミックに描かれている登場人物を使ったオリジナルの物語である。そして、「モルタデロ&フィレモン」の登場人物だけではなく、イバニェスの描いた「Rompetechos」「Rue 13 del Percebe」という他の2つのコミックの登場人物も一緒くたになって出てくる。話の大筋には関係ない人々が大勢、ああでもないこうでもない、これでもかこれでもか、と押し寄せてくる。誰もがとんでもない個性の持ち主で、あまりにも強烈、ハンマーで頭を殴られて自分が飛んでいってしまいそうであったぞよ。
さて、この作品の制作は極秘で進められていたのだが、“「モルタデロ&フィレモン」がやってくる!!”と大々的にスポットが流されるようになって、「いったい、誰がモルタデロとフィレモンを演じているのだ?」とここそこで聞かれるようになった。宣伝効果を狙うため、かなりの期間、役者の経歴が秘密にされていた。そして公開直前、モルタデロ役のベニート・ポシーノが姿をあらわし、地のままでモルタデロそっくりであることが世間の目にさらされたのである。彼の本業は郵便局の職員。郵便局の窓口で切手を売ったり、書留を受け付けたりしているごく普通の人なのだ。副業として“映画出演”(通行人とか群集の一人とか死体の役とか)したことはあるらしいのだが、あくまでも趣味の範囲を超えていなかったらしい。それが、一躍スターとなってしまったのだ。小さい頃からモルタデロにそっくりであったために、「モルタデロ、モルタデロ」とからかわれたこともあるとか。これを機会に役者に専念するかどうかについては未定、なんだそうだ。
映画全体を見てみるとなんとなくまとまりのない大作、という印象があるのだが、ハビエル・フェッセルという人のすごさを感じ取ることはできる。もちろん、彼の短編や前作などの評価は絶大であるし、彼の作風を真似するような人も出てきていない。もちろん、真似するようなことは不可能だとは思うが。彼の経歴を見てみると、映画を撮る前はスポットCMを手がけており、相当な数をこなしていたらしい。そこで鍛えたのか、ワンシーン毎に観客の興味をひきつける法を心得ている。リズムとタイミングの良さ、洗練されたセンスは彼独自のもの。 BY TAKA(2月28日) |
先週の土曜日に行われた2002年のゴヤ賞の発表。 毎年のように国営放送TVEによって発表の模様が映し出される。今年も例年のごとく、場にそぐわないちょっといただけない司会進行によって3時間あまりのお祭り騒ぎが続いたが、それとは全く別の問題が数日たった今もくすぶっている、というかさらに波紋は広がっている。一視聴者としては、理解できるけどちょっとやりすぎじゃない?と思ったほどであったのだから、これに直接かかわる人たちにとってはただ事でなかったであろう。ま、これについては後述するとして、本題にもどろう。 2002年のスペイン映画界は冬の時代とも形容されるほどお寒い状況であった。制作された映画の本数は激減、観客動員数は前年の半分、大ヒットと呼べる作品はなく、せいぜい、まぁ検討したね、程度のものが数本あっただけであった。何十年も前の日本の映画界を見るようであるが、斜陽の一途をたどると、それを回復させるためには何十倍ものエネルギーを必要とすることが明らかであるのに何の対策もとられないまま先送りとされている。フランスのように自らの文化である映画を守るため国をあげて保護政策をとらないといけない、とここ数年念仏のように唱えられてきているが実現していないし、する気配すらみせていない。
さて、2002年のゴヤ各賞のノミネートではペドロ・アルモドバルの「Hable con ella」とフェルナンド・レオンの「Los lunes al sol」が優勢、それ以外ではエミリオ・ラサロの「El otro lado de la cama」が食い込んできていた。
どのような映画、役者が賞をとるかというのもひとつの興味ではあるのだが、式次第がどれほどばかげているかをみて批判することも私の中での楽しみのひとつになっている。
毎年、その年度で活躍した役者を司会者に持ってくるのだが、その役者にやらせることといったら、情けなくなるほど会場がしらけきってしまうような台本なのだ。映画界のプロを前にそれなりの役者がなぜあのようなピエロを演じなければならないのか、不思議だ。小学生の頃の学芸会を思い出す。
確かに国民のほとんどが思っていることを口にしただけというところなのだろうが、TVEでやったのがいかんかった。TVEは映画制作の際に大量の資金を提供しスペイン映画を活性化させるよういろいろなプログラムも組んでいる。パトロンにはむかうようなことをしたらまずいよなぁ、とまぁ、番組を見ながら思っていたわけだ。
このゴヤ賞の授賞式には司会者以外にもプレゼンテーターが各賞に用意されている。有名な俳優さんたちが続々と出てきてプレゼンテーターをするのを見るのもちょっとした楽しみだ。ほんの1分ほどしか舞台にいないのだが、この間をどのようにしきるか、とかどんな服装をしているか、とかね。だいたいにおいて男優さんのファッションというのはそれほどとやかくいうようなものじゃない。ダークスーツとかが多いから。問題は女優さん。若い方で行くとパス・ベガが背中のぱっくり開いた、お尻がみえそうなドレスを着てたのが印象的で、ベテランの方ではテレレ・パベスの真っ赤な肩のあいたドレスがすごかった。何せこの女優さん、見たことがある人なら分かってもらえると思うが強烈である。もちろん太っているんだけど、いつも意地悪ばあさんみたいな役で強烈なだみ声、ドレスとは無縁のような人なんだわ。それがまぁ、プレゼンテーターに指名された歓びをすべてドレスに詰め込んだみたいだった。でも、あの潔さが好き。 毎年何かしらのメッセージが全面に出るゴヤの授賞式なのだが、スペイン映画の1年を締めくくる行事という意図からはずれた(勝手に騒ぎ立ててるという見方もできないではないが)式となるとは意外であった。 BY TAKA(2月7日) |