マドリッドの生活も、スタジオで、グループレッスンや個人レッスンのクラスでの伴奏や、レッスンを受けている人の稽古の伴奏ギターを弾く毎日が忙しく過ぎていき、あまり緊張のない日が続いていった頃、自分が「スタジオ伴奏ギター屋さん」になっている事に気が付き、このままでいいのだろうかと思いながら、忙しい日常に流されていました。
そんなある日、『ボンちゃん、「レブリハーノ」がテアトロ・レアル(王立劇場)で歌うの!! 知ってる〜?』・・『 「レブリハ-ノ」(Juan Pena “El Lebrijano”)が王立劇場で ?』・・・『そうよ!ヒターノのフラメンコの歌い手が「テアトロ・レアル」でよ!!』・・・と、「テレサ」さん(私がお世話になった、マドリッド在住の日本人女性フラメンコダンサー)に聞き驚きました。
『何処から来たのかな〜』・・・『マドリッド郊外の「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)からでしょう!』・・・『やっぱり〜』・・・『あのリムジンやベンツは?』・・・『ハイヤー会社に頼んだんじゃないかな〜』・・・『そうやろな〜』・・と、友人と話したのを思い出します。
「レブリハーノ」は“PERSECUCION(迫害)”[ヒターノ(ジプシー)の迫害の歴史を歌ったレコード・CD]のなかの「詩」を中心に「エンリケ・メルチョール」の伴奏で歌いました。
この時に踊ったのが「ファルーコ(El Farruco)」でした。踊りを教え込んだ自分の息子を、2年前に交通事故で亡くして以来、人前ではけっして踊らなかったという彼が、「レブリハーノ」が王立劇場で歌うという事でマドリッドまで来たのだそうです。
ある日、『あの「ピカソ」は闘牛の“ピカドール”に憧れてたの知ってますか?』・・と、知り合いになった絵描さんに聞かれ、・・・『〜え?知りませんでしたが、“ピカドール”って何ですか?』・・・『闘牛の時に出てきて、馬の上から「槍」で牛の背中を刺す人のことだよ! 昔のピカドールが乗っていた馬には、今のような馬を守る為に付けられた「よろい」は無く、技が必要で、闘牛士と同じぐらいに英雄だったんだよ!・・・え〜! まだ闘牛〜観てないの!〜? スペイン人の‘美’意識がわかるのに!』・・・と言われ、その日の闘牛に誘われて「ベンタス(マドリッドの闘牛場)」に観に行きました。そして、フラメンコと同じように『オ〜レ!』と声をかける『闘牛』に、とにかく驚きました。 私はセビージャの「フェリア」(春祭り)の時の闘牛が好きです。「カセタ」という祭の会場 ― 毎年「フェリア」の時にできる‘町’ぐらいの規模。― に仮設された小屋で、「セビジャーナス」の歌と踊りの「春祭り」の雰囲気を味わいながら、昔からの友達と会い、「フィノ」(シェリー酒)を飲み、「チーズ」や「生ハム」、「イカリングのから揚げ」、などをつまみ、楽しく過ごした後、午後の闘牛を観に行くのです。 闘牛士の牛を操る技にはリズムがあり、フラメンコの「ブレリア」の踊りと通ずるところがあります。幾つかの技が気持ちよく(美しく)続き、最後の決め技(remate)で、かっこよく〆た後、牛からさっと離れるのです。 闘牛士の美しい技の「型」がフラメンコの踊りに影響しているのは本当だと思います。だからフラメンコが日常生活に入り込んでいるアンダルシアの人たちと闘牛を観るのが面白いのです。
ある日、闘牛場で、葉巻を吸いながら観ていた熊のように毛深い「おっちゃん」が、闘牛士のリズミカルな技が続き、驚く決め技を見せた瞬間、立ち上がって、鳥肌をたてて泣きながら『オ〜レ!』と何度も叫んでいました。
観客は、闘牛の『芸術(arteアルテ)』を楽しみながら、しかし闘牛士が死ぬかもしれない場面でもあるわけですが、これを見て熱狂するのです。
闘牛で『オ〜レ!』という歓声を上げるのと、フラメンコのカンテ(詩)のなかで「耐えがたい苦悩や死」をテーマにしたものにも、『オ〜レ!』と力強く歓声を上げるのは、淵源が同じなのかもしれません。
セビージャからマドリッドに戻って過ごした2年の間に、いろんな人と出会ったり、闘牛やコンサートに行ったり、いろいろ面白いこともありました。
踊りのクラスレッスンの伴奏をするスペイン人のプロのギタリストがいつのまにか来なくなり、プロの横で学ぶ事も出来ず、クラスで弾かされるようになりました。
来月に続く
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