第24回(2004年10月)


 ― フラメンコと闘牛の『オーレ〜!!』 ―

   マドリッドの生活も、スタジオで、グループレッスンや個人レッスンのクラスでの伴奏や、レッスンを受けている人の稽古の伴奏ギターを弾く毎日が忙しく過ぎていき、あまり緊張のない日が続いていった頃、自分が「スタジオ伴奏ギター屋さん」になっている事に気が付き、このままでいいのだろうかと思いながら、忙しい日常に流されていました。

そんなある日、『ボンちゃん、「レブリハーノ」がテアトロ・レアル(王立劇場)で歌うの!! 知ってる〜?』・・『 「レブリハ-ノ」(Juan Pena “El Lebrijano”)が王立劇場で ?』・・・『そうよ!ヒターノのフラメンコの歌い手が「テアトロ・レアル」でよ!!』・・・と、「テレサ」さん(私がお世話になった、マドリッド在住の日本人女性フラメンコダンサー)に聞き驚きました。
この「テアトロ・レアル」(王立劇場)では、世界的に有名なオペラ歌手が出演するオペラやオーケストラのコンサートが行われる劇場です。そこでフラメンコのカンタオール(歌い手)それも、ヒターノ(ジプシー)が歌うのです。
当日、何処からきたのか大勢のヒターノが劇場にやって来ました。そのなかには、「リムジン」や、大きな「ベンツ」で劇場の正面玄関まで乗り付け、ヒターナはドレスを着て、王様や貴族も観に来るオペラがある時の観客のように、正装してやって来たのです。

『何処から来たのかな〜』・・・『マドリッド郊外の「Chabola」(チャボーラ:ジプシーの住むバラック)からでしょう!』・・・『やっぱり〜』・・・『あのリムジンやベンツは?』・・・『ハイヤー会社に頼んだんじゃないかな〜』・・・『そうやろな〜』・・と、友人と話したのを思い出します。
「テアトロ・レアル」(王立劇場)にこのようにしてやって来た「ヒターノ」の心意気を知り、感心したものです。

 「レブリハーノ」は“PERSECUCION(迫害)”[ヒターノ(ジプシー)の迫害の歴史を歌ったレコード・CD]のなかの「詩」を中心に「エンリケ・メルチョール」の伴奏で歌いました。
レコードを持っていたので詩の内容をわかって聞くことが出来ました。・・・1499年、「メディーナ・デル・カンポ」にて、「イサベル」と「フェルナンド」両王により「ヒターノ(ジプシー)迫害令」という無情な法令がだされ、その法の施行のため捕えられサインを強制されたヒターノは、死を恐れず、手を震わせることなく堂々とサインした。・・・そして、その後も続いていく迫害〜・・・・・・
15世紀から幾世紀も続く迫害による血の歴史、・・・フィリップ5世の時代(18世紀半ば)には、キリスト教会の扉も閉ざされたヒターノ(ジプシー)・・・・これらを歌い上げる「レブリハーノ」の悲痛な‘嘆き節’に、観客が『オーレ〜!!』『オォーレ!』と力強く歓声を大きくあげるのです。
「楽しさ・喜び・幸せ」などの希望すら観客の側に期待させるわけでもないのに、迫害による、人が引き裂かれた苦悩を聞いて、スペイン人は大きな歓声と拍手を送っていました。

この時に踊ったのが「ファルーコ(El Farruco)」でした。踊りを教え込んだ自分の息子を、2年前に交通事故で亡くして以来、人前ではけっして踊らなかったという彼が、「レブリハーノ」が王立劇場で歌うという事でマドリッドまで来たのだそうです。
舞台のフィナーレで「ブレリア」が始まり、しばらく「カンテ」(歌)が続いていたのですが、「ファルーコ」はスッと前に出て踊り始めたかと思うと、ド迫力の「パソ」(踊りの振り)をいくつか踊り、最後は、止めを刺す(remate)「パソ」で極めてから、そしてサッと退いていきました。
すごい気迫のこもったヒターノらしい踊りで、その強烈な印象は忘れられません。・・・・・

 ある日、『あの「ピカソ」は闘牛の“ピカドール”に憧れてたの知ってますか?』・・と、知り合いになった絵描さんに聞かれ、・・・『〜え?知りませんでしたが、“ピカドール”って何ですか?』・・・『闘牛の時に出てきて、馬の上から「槍」で牛の背中を刺す人のことだよ! 昔のピカドールが乗っていた馬には、今のような馬を守る為に付けられた「よろい」は無く、技が必要で、闘牛士と同じぐらいに英雄だったんだよ!・・・え〜! まだ闘牛〜観てないの!〜? スペイン人の‘美’意識がわかるのに!』・・・と言われ、その日の闘牛に誘われて「ベンタス(マドリッドの闘牛場)」に観に行きました。そして、フラメンコと同じように『オ〜レ!』と声をかける『闘牛』に、とにかく驚きました。
私が始めて観たこの時は、なんでこんな残酷なものを観て楽しいのかが判りませんでした。殺される牛を見た時のショックが強く残るだけでした。
しかし後日、闘牛に詳しい人からいろんな話を聞いたり、闘牛場で『オ〜レ!』という歓声がどよめき、闘牛士の見事な闘牛技がリズミカルに続くのを観た時、闘牛の面白さがわかりはじめました。

 私はセビージャの「フェリア」(春祭り)の時の闘牛が好きです。「カセタ」という祭の会場 ― 毎年「フェリア」の時にできる‘町’ぐらいの規模。― に仮設された小屋で、「セビジャーナス」の歌と踊りの「春祭り」の雰囲気を味わいながら、昔からの友達と会い、「フィノ」(シェリー酒)を飲み、「チーズ」や「生ハム」、「イカリングのから揚げ」、などをつまみ、楽しく過ごした後、午後の闘牛を観に行くのです。

 闘牛士の牛を操る技にはリズムがあり、フラメンコの「ブレリア」の踊りと通ずるところがあります。幾つかの技が気持ちよく(美しく)続き、最後の決め技(remate)で、かっこよく〆た後、牛からさっと離れるのです。

 闘牛士の美しい技の「型」がフラメンコの踊りに影響しているのは本当だと思います。だからフラメンコが日常生活に入り込んでいるアンダルシアの人たちと闘牛を観るのが面白いのです。

ある日、闘牛場で、葉巻を吸いながら観ていた熊のように毛深い「おっちゃん」が、闘牛士のリズミカルな技が続き、驚く決め技を見せた瞬間、立ち上がって、鳥肌をたてて泣きながら『オ〜レ!』と何度も叫んでいました。
闘牛士は、自分の闘牛技を引き出してくれる「Toro(牡牛)」と出会った時、「死」を覚悟で、きわどい技の“美”を表現してしまうのです。

 観客は、闘牛の『芸術(arteアルテ)』を楽しみながら、しかし闘牛士が死ぬかもしれない場面でもあるわけですが、これを見て熱狂するのです。
理性だけでは説明できない人間の奥深い思いを、隠さず正直に表すスペイン人の情念かもしれません。
死ぬかもしれないものから生まれる極限の『アルテ(芸術)』を観たいという気持ちを抱くのは、またそれを経験した時に興奮するのは、スペイン人だけではないと思います。

闘牛で『オ〜レ!』という歓声を上げるのと、フラメンコのカンテ(詩)のなかで「耐えがたい苦悩や死」をテーマにしたものにも、『オ〜レ!』と力強く歓声を上げるのは、淵源が同じなのかもしれません。
人は、良いか悪いかの判断が下される前の「見るに耐えがたいもの」や「聞くに耐えがたいこと」を経験した時、心のどこかに“魔性をおびた恍惚感や、ゆえ知れぬ興奮感”を抱いてしまう事があります。スペイン人はこれを隠さず、人の情念から生まれ出た、嘘のない、心の奥底から沸き出てくる“この気持ち”を、他の人とも共有して一つになり、それをバネとして生きることを知っているとでもいうのでしょうか。
 今をつい惰性で生きてしまう日常において、「死」の現実を感じて、目を輝かして生きる本当の「生」を再認識するためなのかも知れません。・・・・・

セビージャからマドリッドに戻って過ごした2年の間に、いろんな人と出会ったり、闘牛やコンサートに行ったり、いろいろ面白いこともありました。
ギタリストの『パコ・デ・ルシア』が「テアトロ・レアル」で演奏した時、楽屋で「握手した!」とか、彼がジャズのギタリストと初めて競演したコンサートに行ったりとか、バイラオーラ(踊り手)の『メルチェ』の個人レッスンの伴奏をしていたある日、カンタオール(歌い手)の『ペペ・デ・ルシア』が『メルチェ』に会いに来て、彼女の生徒の踊り(「アレグリアス」)に合わせて歌ってくれた時に伴奏した事もありました。

 踊りのクラスレッスンの伴奏をするスペイン人のプロのギタリストがいつのまにか来なくなり、プロの横で学ぶ事も出来ず、クラスで弾かされるようになりました。
はじめは緊張もあり勉強にもなったのですが、スタジオの伴奏ギターを弾く生活から抜け出してフラメンコが生まれた土地に行きたい気持ちがだんだん大きくなっていき、81年の夏、再びセビージャに行き、旧市街の古いアパートでの生活がはじまりました。


来月に続く

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