冷や飯と、めざしとたくあん、という「丁稚の食事」で、頭をたたかれながら覚え、磨いてきた自分の技術を二人の息子に伝えたかったのだろうと思います。兄貴もそうだったようですが、『私立の高校は高いからあかん。安い公立の高校の入学試験に落ちたら、わしのあとつげよ。』という約束でした。高校の入試発表の日、私より先に発表を見てきた親父とばったり高校の近くで出会いました。 『あった、あった』と私に伝え、雨の中、小走りに仕事場に戻っていく親父、一瞬、時が止まったようなその場で、親父の声の余音が残るなか、曲がり角までしばらく見えていた親父のうしろ姿が、忘れられません。
『お父ちゃん、これが今まで貯めた、貯金通帳で、これが飛行機の切符です。一年か二年、ちょっとスペインに行って来ます。』『・・・・・』親父は何も言いませんでした。
1978年の11月の末頃、いまは亡き三人(両親と義兄)に、伊丹空港まで送ってもらい、羽田から、出来たばかりの成田空港にバスで着き、「18万5000円・ローマパリ8日間ツアー」を利用して(というのも、片道のパリまでのエアー料金が「大韓」で13万円でした。5万円でローマとパリがホテル・観光・食事付きで見れると思ったからです。)、パリからは一人で、夜行電車に乗って、12月の3日、とても寒くて小雨のマドリッドのチャマルティン駅に着きました。 地下鉄の「アントンマルティン駅」の近くの「アモール・デ・ディオス」道りに在った、フラメンコの練習場と、近くのペンションを往復するマドリッドの生活が始まりました。
来月に続く
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