第15回(2003年5月)


初めてのセビージャ
『 ここが日本で憧れていたスペイン !』

 今なら、マドリッドからセビージャまで、AVE(日本でいう新幹線)で行けば、2時間半ですが、 私が始めてセビージャに行った時は、アト−チャ駅を、夜の11時に出発して、セビージャに朝早く着くという夜行で行きました。
 当時、セビージャには二つのレンフェ(スペイン国鉄)の駅があり、カディス駅とコルドバ駅と呼ばれていました。  マドリッドからは、「プラサ デ アルマ」(通称コルドバ)駅に着きました。ムデハル様式(イスラムの文化を色濃く残した建築様式)の煉瓦と鉄のドームの建物は、 今は展示会場などとして使われています。

 初めて着いたセビージャのコルドバ駅から、地図を見ながらまずは知人の住む、トゥリアーナ地区を目指して歩きました。 またここは、フラメンコの古い伝統をもち、セビージャのヒターノ(ジプシー)居住地で、フラメンコの歌い手や、踊り手、また、有名な闘牛士が たくさん昔から住んでいると聞いていた所です。

 グアダルキビル川にかかる「イサベル2世橋」-通称・『トゥリアーナ橋』- まで歩き、川向こうのトゥリアーナ地区をはじめて見た時、 「本当に今もヒターノがたくさん住んでいるのかな〜 、フラメンコのアーティストもたくさん住んでいるのかな・・・??」と思いながら この橋を渡りました。 

 この、トゥリアーナ橋は、「エッフェル塔」の時代のもので、ほとんど「鉄」で造られています。自動車が横を通った時、足元が少し変だな?と感 じたのですが、大きなバスが私の横を通過した時、はっきり橋が上下に動いているのがわかり、「この橋、大丈夫かな?」と心配しながら渡りました。 ふと振り返ると、遠くに『ヒラルダ』(大聖堂の尖塔)や、『黄金の塔』、そして、 『マエストランサ闘牛場』、また、周りの建物よりもひときわ高い「シュロ」の樹、等が、6月(こちらスペインではもう夏)のコバルトブルーのもとで、 日差しのかなり強い朝日を浴びていました。

 セビージャは古くから陶器が有名で、トゥリアーナには、花柄の絵ざらや壺を売る店がたくさんありました。 そんな店がならぶ、橋を渡って正面前方にのびる「サン ハシント通り」の「ペンション」に宿を決め、知り合いに紹介してもらった人に会いに行きました。 
 トゥリアーナ橋を渡ってすぐ右に在る「公設市場」から少し離れたところにアパートを借りて住んでいる方で、古い黒ぶちのめがねをかけ、 日本にいた時、テノールで歌っていたこともあるという、とても声のいい男性でした。
(この「原さん」とはこれ以来、友達になりました。・・実はつい最近、同じ黒ぶちのめがねをかけ、前歯に自分で治した(造った?) 差し歯をはめ、日本に帰国しました。)

 彼のアパートの近くには、昔、『異端審問所』( カトリック世界で主に異端者の告発と処罰を目的として13世紀に設けられた機関。 ----スペインでは、1834年廃止された。--- )が在ったそうで、今も、通りの名前( INQUISICION 通り)として残っています。 ・・・ということや、コロンブスが、ここセビージャに持ち帰った(かっぱらった)金の量とか、・・・、博学の彼、原さんからは、その時、 いろんなおもしろい話を聞きました。

 ここセビージャでは、夕方、どこを歩いていても、なぜか疲れません。「BAR(バル)」で、コップ一杯の「カーニャ」(生ビール)とタパスをつまみ、 違う店では、美味しいタパスと「へレス」(シェリー酒)でまた一杯。飲み歩く街並みは、白壁の家々、ベランダには花を咲かした植木鉢、 街路樹が、オレンジで、夜は、どこか暖かさを感じさす水銀灯です。そして、常にどこからともなく、「パルマ」(フラメンコの手拍子)が 聞こえてくるのです。
 ・・・『セビジャーナス(セビージャの民謡、舞曲)』を歌いながら、時には『ブレリア』のリズム ! ・・・・ 
 「ここはマドリッドと全然違うな〜 !!」・・・と体全体で感じ、周りにいっぱいフラメンコがあると思い、自分でも、 下手なパルマを打ちながら歩いたり、嬉しくてたまりませんでした。 日本でアルバイトをして、お金を貯めていた時に憧れていたスペインが、 ここに在る! と思いました。

来月に続く

■エル・アルボンディガのプロフィール


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