夏のアンダルシアは飛んでる鳥があまりにも暑いので、落ちて、焼き鳥になってしまいます。本当に、とりかえしがつきません。・・・ スペインでの最高気温は、コルドバとセビージャの間にある、『エシーハス』という町で、60度を記録しています。 私自身、新聞、 つまり日陰の百葉箱の中の温度が48度という日を経験しています。炎天下では、自動車のボンネットの上では目玉焼きができ、 夕方の6時ごろは、55度は超えていたと思います。家の外には猫も歩いていません。部屋の中の何を触っても自分(体温)より熱いのです。 だから、シエスタをするしかないのです。(子供の夏休みは3ヶ月間もあります。) 人々は、夏、野良で夜明けとともに働き、昼の1時ごろまで仕事をして家に帰り、よく冷えた"ガスパチョ"(オリーブ油とワインビネガ、 パン、にんにく、塩、の入ったトマトをベースにした、夏の冷たい野菜スープ)を飲みながら、昼ご飯(2時〜3時ごろ)を食べて、 4時ごろから、夕方の8時か9時頃までシエスタ(昼寝)をして、夜中の2時か3時ごろまで夕涼みをしています。 アンダルシアの村や町では、夏、夕涼みを兼ねた野外に映画館ができます。折りたたみの木の椅子を並べ、'ひまわり' や'かぼちゃ' の種を食べたり、生ハムやチョリソ(サラミのような腸詰ソーセージ)とパン、そして。ビールや「夏の赤ワイン」 (赤ワインを氷と少し甘い炭酸水で割ったもの)を飲みながら夜を楽しむのです。 私が初めてアンダルシアの町や村に行ったこの年(1979)、『ブルースリー』の映画がすごい人気でした。 (映画は大体がアクション物で古い映画が上映されていました。)、 悪漢が主人公にやられると、ほとんどのスペイン人は スクリーンに向かって、大きく声援を送り、拍手して隣の人と喜び合うのです。・・・これは今も変わりません。
小さい町に行くと、昔、子供達に石を投げられた人がいたとか聞きましたが、まだまだ昔の価値観が影響しているのでしょうか。
東洋人を見ると、『チーノ、チーノ』といって未だに馬鹿にする人がいます。 私は石を投げられませんでしたが、どんな町や村へ行っても子供達が寄ってきて、「チーノ、チニート !」と言われました。 だんだん寄ってきて、こちらが「オラ〜 !」(英語のハローの意)というと、よく、『空手を知っているか?』『ブルースリーを知っているか?』と 聞いてきました。私は、腕と手指を動かしながら、空手の準備体操のような真似をしながら、『ブルースリー か ? よく知っているよ、 兄弟だもん !』といって、大きな声と手を使って『 チョンワ〜 !!』というと、「チーノ」といって馬鹿にしたから、仕返しされると思ったのか、 子供は走って逃げていきました。
私が始めて"フラメンコ・フェスティバル"− [カンテ(フラメンコの歌)フェスティバル] − を見たのは、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」
というカディスの隣の港町です。
「エル・プエルト・デ・サンタマリア」といえば、カマロンが有名になるまで、最も人気があったカンタオールの"パンセキート"の故郷です。
当時のイギリスでの、「エリザベス女王一世」と「サー・ウォルター・ローリー」(海賊)の有名な話によりますと、この海賊を女王は貴族に
召し上げたそうです。(スペイン船を襲って金や銀をイギリスに持ち込んだ功績(?)により、「サー(Sir--卿)」になれたのです。)
さて、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」での、『GRAN FESTIVAL "Noches de la Ribera"』(1979年6月7日)というフェスティバルは、 夜の10時ごろから始まり、夜中の3時ごろまで、カンタオールが7人、踊りが"マヌエラ・カラスコ"、最後は、'パンセキート'が息子のギター 伴奏で延々と歌っていました。
始めに、'チケテテ'(今は、流行歌を歌っています。)、'ランカピーノ'、'フォスフォリート'、'マヌエラ・カラスコ'(踊り)、'トゥロネーロ'、'カマロン'、
'レブリハーノ'、'パンセキート'。一人のカンタオール(歌い手)が40分ぐらい歌います。ギターは、'エル・ルビオ'(マヌエル・ドミンゲス)、
'エンリケ・メルチョール'、'ホァキン・アマドール'、'トマティート'、・・。
来月に続く
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