「プエルト デ サンタ マリア」という港町で初めてフラメンコの「カンテ・フェスティバル」を体験し、 アンダルシアの人々がフラメンコをどのように楽しむのかを観て、また一歩、フラメンコに近づけたと思いました。
レコードでしか聞いたことがない有名なカンタオール(フラメンコの歌い手)達を、実際に見て、歌を聞いて、土地の人々と一体となって、
『オレー!』という歓声の中で行われるフラメンコの歌のフェスティバルに、正直に言って、戸惑い、圧倒され、何も食べずに、
ただただ録音することに気をとられ、楽しむ余裕はありませんでした。 夜空の下で、ワインやいろんな食べ物のにおいが漂う中、幼児から子供、年頃の若い男女、おとうちゃん、おかあちゃん、 葉巻をくわえたおじいちゃん、エプロンを着けたままのおばあちゃん、・・・みんなが『オッレー!』『おーれ〜!』と歓声を飛ばし、 皆がひとつになっている雰囲気のなかで、いまひとつ、周りに溶け込めない自分に気が付いていました。
セビージャにもどり、トゥリアーナ(地区)を歩き回って、人々の生活を見るのがとても興味深く、顔見知りのスペイン人を見ると
「オラ〜!」と話しかけ、親しくなろうとしました。
ある「バル」では、「フィノ」(辛口のシェリー酒)を皆が飲んでいるので、私も飲みながらその場の雰囲気を楽しんでいました。
ラジオからは、何処かの「カンテ・フェスティバル」の実況録音が流れています。
『 XXIII POTAJE GITANO ― UTRERA 』 (1979年6月23日)
というフェスティバルを観に、セビージャから、30キロほど南東にある町、「ウトレラ」に行きました。
町にバスで着いて、野外のフェシティバル会場の場所を人に聞いて行ってみると、町の郊外に出てしまいました。
また、町に戻り探していると、さっき教えてくれた兄ちゃんが、こちらを向いて笑っています。
夕方の、8時半頃、やっと見つけた野外会場に入り、録音が上手くできそうな場所に席を取り、座っていると、
まわりのスペイン人が美味しそうな料理を手に持っているのです。うらやましそうに見ていたのが通じたのか、
『これ、タダやで〜、早よう行って貰ってこんかいナ〜!』と教えてくれたのです。
この料理の名前の「POTAJE GITANO」が、この町・「ウトレラ」のフラメンコ・フェスティバルの名前なんだと食べながら気が付きました。
(なんか飲みたいな〜)と思っていると、隣のおっちゃんとおばちゃんが、皮袋に入った赤ワインをくれました。 食べたり飲んだりしていると、舞台で若い二人が、パコ デ ルシアのギター曲「エントレ ドス アグア」を弾いていました。演奏が終わると、 司会者が出てきて挨拶し、出演するアーティストを紹介して、カンテ・フェスティバルが始まりました。
はじめのカンタオール(フラメンコの歌い手)は、シェリー酒で有名な町「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ」の『フェルナンド・テレモート』 、
ギターは、『マヌエル・モラオ』です。
挨拶を続ける「テレモート」、『この村は、ほんまに、ええ村や、カンテをわかっているし、うまい歌い手も居るし〜・・・そして〜、
私の村もそうやけど!。・・・ひとつ言わしてもらうで〜、・・ウトレラ、万歳!、ヘレス、万歳!』・・・『これでOKやろ〜?!』・・・会場から拍手。
歌が終わると、何度となく『オッレー〜!』の歓声があがりました。
そんな中、ギターの「モラオ」が『シギリージャ』を弾きはじめると、ざわめいていた会場は「シーン」となり、しばらく聞いていると、
私にも『ガーン!』となんともいえない雰囲気が伝わってきました。 歌が終わると、すごい拍手と歓声が起こりました。隣のおじいちゃんは、私に腕を見せ、『見てみ〜 ほれ! 鳥肌がまだ消えへん〜!』 と言いながら一人でうなずき、目は涙で潤んでいました。・・・・・・
来月に続く
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