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スペイン音楽のアーティスト達《ポップ・ロック編》

今スペインで活躍しているアーティスト達、スペインで世代を問わず広く愛されている アーティスト達って?
個人・グループを問わず紹介してみたいと思います。

Alejandro Sanz(アレハンドロ・サンス)
1991年に「Viviendo deprisa」でデビュー。97年の発表の「Mas」が67週チャートイン (うち、26週1位をキープ)する大ヒットとなる。3年間の沈黙の後、2000年10月に「El alma al aire」をリリース。 シングル第1弾「Cuando nadie me ve」は初登場1位のヒットとなる。このCDは2001年度のラテングラミー賞の、Record of the yearを受賞。 2001年には米国の人気音楽番組「MTV Unplugged」でのライブ盤を発表。楽曲良し、ルックス良し(?)の、 押しも押されぬスペインきってのトップ歌手。アルバム「No es lo mismo」ではヒップホップスタイルに挑戦、高い評価を受けている。
Alex Ubago(アレックス・ウバゴ)
1982年、サン・セバスティアン生まれ。18歳の時、彼女の誕生日プレゼントに作ったテープを父親が知り合いの音楽マネージャーに 渡したところから彼の人生は大きく変わった。オレハ・デ・バン・ゴッホ、ドゥンカン・ドゥといったアーティストを抱えるこのマネージャーは 18歳の青年の持つ声と表現力に驚き、ただちにアレックスはレコード会社DROから契約を結ばれた。その後、有名プロデューサー、 ヘスス・N・ゴメスとアレックスの間で、彼がそれまでに作曲していた中からデビューアルバムに入れる曲を選ぶ作業が行われ、 彼女へのテープが作成されてから1年半後の2001年、「Que pides tu?」がリリース。このアルバムは2003年2月までもヒットチャートに 入っている大ヒットとなった。この中のバラード「Sin miedo a nada」では出身地サン・セバスティアンの先輩歌手、オレハ・デ・バン・ゴッホの アマイア・モンテロとのデュエットも聞くことができる。
Amaral(アマラル)
サラゴサ出身のエバ・アマラルが出身地の小さなバンドでドラムとして活動を始め、その後フアン・アギレと共に1997年にマドリッドに上京するまで2人は地元で活動する。この年ファーストアルバム“Amaral”をリリース。セカンドアルバム“Una pequena parte del mundo”を2000年に発表した後、2002年に出した3枚目のアルバム“Estrella de mar”が大ヒット。このアルバムはONDA賞最優秀歌曲賞など数々の賞とプラチナ・ディスクを獲得したほか、同年、アマラルはMTVヨーロッパ最優秀スペイングループ賞も獲得、ラテン・グラミー賞にもノミネートされている。
Ana Belen(アナ・ベレン)
本名マリア・ピラール・クエスタ。1948年マドリッドのラバピエス地区に3人兄弟の長女として生まれる。小さい頃から歌うことが好きで、学校の先生の勧めで彼女のいとこが勤めるラジオ局のコンクールに出演。優勝こそならなかったが、以降数々のラジオコンクール番組に出演、12歳のときシングル、"Que dificil es tener 18 anos"でデビュー。13歳で"Zampo y yo"で銀幕デビューも飾る。その後しばらくは劇場と映画、テレビ出演が続き、歌からは遠ざかっていたが、1972年歌手のビクトル・マヌエルと結婚。"Al diablo con amor"のサウンドトラックで8年ぶりにレコードを録音、翌年夫の作曲した曲でLPの録音を開始。以降リリースしたアルバムは20枚以上。テレビ、劇場での女優としての活躍も続いている。2児の母。
Antonio Vega(アントニオ・ベガ)
1957年12月16日マドリッドで7人兄弟の3人目として生まれる。建築の道を目指すが大学を2年で中退。 社会学者、パイロットを志すが結局音楽の道へ。77年、バレンシアで兵役を務め、その翌年いとこのナチョ・ガルシア・ベガと Nacha Popを結成。この時期作曲した「Chica de ayer」は名曲で、のち、エンリケ・イグレシアスもカバーした。このグループは スペインの最も偉大なバンドの1つとして歴史に残るが、1988年意見の相違により解散。アントニオ・ベガは91年に初めての ソロアルバム「No me ire manana」をリリースする。一時期健康状態を危惧する噂が流れた時期もあったが精力的に活動を続け、 ソロとしてはこれまでに6枚のアルバムをリリースしている。2001年には「De un lugar perdido」でラテン・グラミー賞にノミネートされた。 2002年には「Basico」で、ライブ形式をとったベスト盤を発売。
Bunbury(ブンブリー)
1967年8月11日生まれ、サラゴサ出身。12歳のとき貯金してギターを買い、このギターを持ってサラゴサのバンド pocalipsisに1980年に入ったBunburyは、その後6年間様々なバンドを渡り歩き、ギター、ベース、ドラム、ボーカルを担当。 彼の夢がかなってついに自身のバンドを持ったのが1987年。このバンドlos Heroes del Silencioはレコード会社EMIから 同年ミニアルバム「Heroes de leyenda」をリリース、3万枚を売る。その後Heroes del Silencioは5枚のアルバムを出し、 着実にヒットを飛ばしたが1997年アルバム「Radical Sonor」のリリースでBunburyはソロ活動を開始する。2000年、 メキシコシティで録音した「Pequeno cabaret ambulante」リリース。コプラ、ランチェラ、タンゴに馴染んでいた彼が、 これらの“時代遅れ”の音楽を積極的に取り入れたこのアルバムは プラチナディスクとなる。
Cafe Quijano(カフェ・キハノ)
マヌエル、オスカル、ラウル・キハノのレオン出身の兄弟3人組。長兄マヌエルがほとんどの作曲を担当、ボーカル、ギターもこなし、 オスカルとラウルがコーラスとギター担当。ボレロを歌いギターを弾く父親の影響を受けた3人が1996年に作ったデモテープが認められ、 Warner Musicと契約、1998年ファーストアルバム「Cafe Quijano」をリリースし、国内ツアーを敢行。セカンドアルバム 「La extraordinaria paradoja del sonido Quijano」ではロックとマンボ、ルンバといったラテンのリズムをミックス、このアルバムは プラチナアルバムとなり、またシングルカット曲「La Lola」も大ヒットした。2003年発表のアルバム「!Que grande es esto del amor! 」では、ホアキン・サビナがコラボレート。
Camela(カメラ)
マドリッド郊外のSan Cristbal de los Angelesの印刷工場で働いていたAngelesと、 ワゴン車で貨物を運搬していたDioni、そしてMiguelAngelが出会い、意気投合。暇を 見つけては集まって歌ったり演奏をしつつ夢を語り合っていた。最初は自主制作カセット を録音して営業をしていたが、それがある小さなインディペンデントレーベルの関係者の 手に渡り、1994年にデビュー作「Lagrimas de amor」が発売された。 このデビュー作が成功し、翌年「Suenos Inalcanzables」をリリース。1996年にはスペイン 国内120箇所でコンサートツアーを行い、テレビやラジオにも多数出演、人気を不動の物にした。 2000年に大手EMIに移籍し「Simplemente Amor」を発表。数週間に渡ってヒットチャートの 1位を独占、同年発表の「Amor.com」は40万枚を越す売上を記録した。最新作は2003年 2月発売の「Por siempre tu y yo」。このトリオの一番の特徴はDioniとAngelesの超音波の 様な声のデュエット。これは非常に好き嫌いがはっきり別れるだろう。そして彼らの歌は バカラオ(ディスコ音楽)とテクノとフラメンコを混ぜたような演奏とともに、強引な位の存在感がある。
David Civera(ダビ・シベラ)
テルエル出身。小さい頃から音楽学校でピアノ、ギター、ソルフェージュ、声楽を習っていたものの、自分が本当にしたいことは自分の作った曲を舞台で歌うことだと気づき、コンクール番組への出場を開始した。アンテナ3の子供スター発掘番組"Lluvia de estrellas" で才能を見出された彼は、2001年、デンマークで開かれたエウロビシオンにスペイン代表として出場、“Dile que la quiero”を歌って6位の成績を収めた。
その後、同名のファーストアルバムが大ヒット、2002年に出した“En cuerpo y alma”、2003年5月リリースのアルバム“Chiqui Big Band”も続いてヒット。これらのアルバムからシングルカットされる曲は、毎年カンシオン・デ・ベラノ(夏の歌-ノリがよく覚えやすいが夏だけのヒットで終わる歌)としてディスコでおなじみ。
Dover(ドーベル)
1992年にマドリッドで結成されたバンドで、歌詞は全て英語。メンバーはアンパロとクリスティーナの姉妹が中心で、 二人で作詞作曲を全てこなしている。“Dover”というバンド名は、結成当時に二人が働いていた母親の経営するブティックに 並んでいたブランド名の響きが良かったことからとったという。彼女達の好きなアーティストは、REM、ビートルズなど。 1995年に最初のアルバム「Sister」でデビュー。以後「Devil came to me ('97)」「Late at Night('99)」 「I was dead for 7 weeks in the city of angels('01)」と合計4枚のアルバムをリリース。フェスティマドやDr.ミュージック・フェスティバル などのフェスティバルにも出演し、コンサートに定評がある。
Duncan Dhu(ドゥンカン・ドゥ)
1984年、ミケル・エレンチュン、ディエゴ・バサジョ、フアン・ラモン・ビレスの3人でグループを結成、フォークソング色の強いポップロックグループとして活動を始める。。グループ名はスティーブンソンの小説の登場人物から。1985年にシングル2枚をリリースしているが、有名になったのは同年リリースの6曲入りファーストアルバム“Por Tierras Escocesas”、 その翌年に出したセカンド・アルバム(“Cien Gaviotas”、“Esos ojos negros”収録)のヒットから。
1988年にフアンラ(フアン・ラモン・ビレス)が脱退、デュオとして活動を始める一方、1991年には、ソロ歌手、ミケル・エレンチュン、カバレ・ポップとしての活動も並行して開始、誰もがグループは解散したと思っていた1994年、“Autobiografia”と並ぶ代表作となる“Piedras”を発表、1996年初のライブアルバム(出身地サン・セバスティアンで収録)“Teatro Victoria Eugenia”がデュオとして最後の作品となり、現在はミケル、ディエゴともソロ活動に専念している。ニック・ロウなどイギリスのロック歌手とも交流があり、マドンナの依頼で、映画『ディック・トレーシー』のサントラアルバムにも参加している。
El canto del loco(エル・カント・デル・ロコ)
2004年から3枚のディスクをリリースし、精力的に活動している4人組のグループで、ボーカル、 作曲のダニ・マルティン、ギターのダビ(ダニのいとこ)、ベースのチェマ、ドラムのハンドロで構成。 2000年にファーストアルバム“El canto del loco”を発表しメジャー・デビュー。 このアルバムと2枚目のアルバム“A contracorriente”は、ゴールド・ディスク獲得。最新作は2005年5月にリリースの“Zapatillas”
Ella baila sola(エジャ・バイラ・ソラ)
Marta とMariliaという2人のマドリッド出身の女の子が学校で知り合って結成。レティーロ公園であるプロデューサーに見出され、 1996年に「Ella baila sola」でデビュー。「Lo echamos a suertes」が大ヒット。 1998年にセカンドアルバム「EBS」をリリースし同じく大ヒットする。2000年11月20日に待望の第3作目、 「Marta y Marilia」が発表される。穏やかでシンプル、リラックスして聴ける曲調で、2人のハーモニーが売り。残念ながら解散してしまったが、マルタ・ボティアは2002年春にソロデビューした。
Estopa(エストパ)
1999年にホセ、ダビ・ヌニョスのグアポな若い兄弟がバルセロナで結成。デビューアルバム「Estopa」が大ブレイクし、 2000年度のプレミオス・アミーゴの「最優秀アーティスト」を受賞。2001年末にスペイン・中南米で発売された2枚目のアルバム 「Destrangis」はメキシコのチャートで初登場15位。シングル「Vino Tinto」「Partiendo la Pana」が大ヒットとなる。 2002年にはスペイン音楽賞ベスト・コンサートツアー賞を受賞。音楽的にはロックあり、ルンバあり、ボッサありの、 ちょっとひねりの効いたポップ。皮肉の入った、若者らしい語り口の歌詞も面白い。
Extremoduro(エストレモドゥロ)
暇をもてあましていたロベルト・イニエスタ(Vo.G.)が仲間と3人で1987年に結成したハードロックバンド。 音楽のインスピレーションは、AC/DCやLe~noから受けたという。89年に友人知人から1人1000ペセタのLP引換券を買ってもらい、 集めた25万ペセタでデモテープを自主制作し、それがその後の活動の基盤となった。最初は某インディーズレーベルと契約したが ひどい契約内容で失敗、その後別の数社から「Agila」(96年)「Canciones Prohibidas」(98年)など合計13枚のアルバムを発表。 2002年3月に待望のニューアルバム「Yo, minoria absoluta」が発売となる。淡々としながらも詩的感覚に溢れた歌詞が特徴。2003年5月には3枚組ベストアルバムもリリースしている。
Hevia(エビア)
エレクトロニック・ミュージック時代の“ガイテロ”ホセ・アンヘル・エビアは、1967年ビジャビシオサ(アストゥリアス)生まれ。 4歳の時に炭坑夫だった祖父と散歩中に、村人が持っていたガイタ(バグパイプ)を見て感動し、すぐに入門する。 中学時代は自転車競技に夢中になっていたが、師匠に「ガイタと自転車のどちらをとるか」と問われ、ガイタを選んだ。 その後、ガイタは単なる楽器に留まらず、自分の村そのものを表すものであると考え始める。大学の卒業後全国のコンクールなどに出場し、 92年にロリエント・ケルト・フェスティバルで優勝。97年にアルバム「Naciones Celtas」を発表、最新作は「Etnico ma non troppo」。 現在は彼自身の開発した電子(MIDI)バグパイプを演奏し、アストゥリアスの古典楽器を世界的なステージへ登場させた。
Hombres G(オンブレス・へ)
1980年代スペインを代表するDavid Summers、Rafael Gutierrez、 Daniel Mezquita、Francisco Javierの4人組ポップグループ。1935年のアメリカ映画“Gメン”からとってグループ名を“Hombres G”と名づける。1983年に彼らのファーストシングル“Venezia”が発売されると、当時流行っていた陰鬱なリズムの音楽と異なった新しい流れはセンセーションを巻き起こし、ファーストアルバム“Hombres G”(1985年リリース)からは“Devuelveme a mi chica”が大ヒット。翌年セカンドアルバムをリリースし、中南米にも進出、87年にはボーカルのダビの父親監督の映画“Sufre mamon”に主演。92年にアルバム“Historia del bikini”を最後に、メンバーは個々の活動に専念することとなったが、2003年5月、これまでのヒット曲に新曲を加えた“Peligrosamente juntos”をリリース、コンサートも行った。2004年には1992年以来初めてスタジオで録音したアルバムとなる“Todo es muy extrano”をリリース。
Jarabe de Palo(ハラベ・デ・パロ)
アラゴン出身のパウ・ドネス(Pau Dones)を中心に結成されたバンド。ギター中心のロックのリズムをベースにしてパーカッションなどの ラテン音楽の要素を取り入れたノリのいい音楽です。96年にラテンアメリカで先行発売されたLa Flacaで注目され、 97年にアミーゴ賞の国内新人賞獲得、2000年発売のアルバム「Depende」が40万枚の売上、同年アミーゴ賞ベストアルバム賞に輝く。 プロモーションビデオでいくつもの賞をとるなど定評あり。
Joaquin Sabina(ホアキン・サビナ)
1949年ウベダ生まれのシンガーソングライター。14歳から詩作を始め、大変な読書家だった。非常事態下の68年、 ウベダ警察署長だった父の元にグラナダ大で文学を専攻していたホアキンの逮捕命令が出たという。70年から雑誌「 Poesia 70 」 に自作の詩を発表するようになる。「ブルゴス訴訟」に反対し、ビルバオ銀行グラナダ支店に手榴弾を投げつけた後、 パスポートを偽造してロンドンに亡命。75年から作曲を始める。76年、自主制作のアルバム「Memorias delexilio」を発表。 BBCからドラマの挿入歌などを依頼されたのをきっかけに、正規のパスポートを取得し77年スペインに帰国。 兵役を経て本格的に音楽活動を開始、社会労働党や労組、共産党の集会で演奏したり、テレビの主題歌などを手がけたりした。 ボブ・ディランのように常に人間の悲哀を歌う彼の詩を愛する人は多い。
La Cabra Mecanica(ラ・カブラ・メカニカ)
マドリッドのラバ・ピエス地区出身のグループ。様々な音楽をミックスしてこれまでにない音楽を作りたいとの思いから、 ベース担当でリーダーのリチスがグループを結成。1993年から97年の間様々なメンバーの入れ替わりを経て、97年ファーストアルバム 「Cuando me suenan las tripas」を発表。新人にして2.5万枚を売るヒットとなり、シングルカットの「Reina de la Mantequilla」もヒット。 しかし、前作の成功によりレコード会社から自由に製作することを許されたセカンドアルバム「Cabron」(99年)が売れず、 リチスはグループの解散も考えたが、彼らをCeltas Cortosが救った。このグループのコンサートで前座を務めた彼らは自分達の歌が 聴衆に受け入れられるのを実感、自信を取り戻し、これが2001年のサードアルバム「Vestidos de domingo」のリリースへとつながった。 プロデューサーにサビナ、M-クランを手がけるAlejo Stivelを迎え、このアルバムにより、La Cabra Mecanicaのアルバムは初めて ヒットチャート上位に入った。
La Oreja de Van Gogh(ラ・オレハ・デ・バン・ゴッ)
サン・セバスティアン出身バンド。1996年にアマイア・モンテロ(vo)をはじめとする5人が大学で知り合い結成。1997年頃からいくつかのコンクールに出場し、1998年にSONYと契約し、デビューアルバム「Dile al sol」をリリース。徐々に知名度を上げる。1999年新人賞(ラジオ版)を受賞。誰にも親しみやすい雰囲気の音楽で、2枚目のアルバム「El Viaje de Copperpot」(2000年)、3枚目「Lo que te conte mientras te hacias la dormida」(2003年11月)とも大ヒット。
La Union(ラ・ウニオン)
1982年に学校で出会った3人組が結成。翌年発表された「Lobo hombre en Paris」はたちまちヒットチャートの 首位に登る。2000年に発表された「Grandes Exitos(1984-2000年のベスト盤)」までに計11枚の アルバムを発表。紆余曲折を経ながらも常に人気を保ってきた。2002年には三島由紀夫の『豊饒の海』 にインスピレーションを受けた「El Mar de la Fertilidad」をリリース。80年代ポップへの懐古をテーマにした この作品はかっこ悪さの中にセンスの良さを感じる逸品。 ドゥービー・ブラザーズやクイーン、ソフト・セル等の海外のアーティストのカバーや、 プロデューサーとのコラボレーションにも積極的で、その意欲は彼等の作る音に確実に反映されている。 スペインポップにしては非常に洗練されていて、昔の曲もその当時の流行の色を感じさせつつも古さを 感じさせないのがさすが。
Los Planetas(ロス・プラネタス)
グラナダのインディーズシーンから1993年にシングル「Medusa EP」(エレファント・レコーズ)でデビュー。 中心メンバーは“J(ホタ)”(Vo.G.作詞)、フロレント(G.)。その後「Super 8 ('94)」、「Pop ('96)」そして98年の 「Una Semana En El Motor De Un Autobus」で全国的にその名を知られるようになる。翌年には2枚組のCD 「Canciones para una Orquesta Quimica」を発表、2002年夏にニューシングル「Corrientes circulares en el tiempo」、 アルバム「Encuentros con Entidades」を発売。誰もが経験するような日常を綴った歌詞とギターの歪みが非常に心地よい。
Manolo Garcia(マノロ・ガルシア)
1984〜1998年の間に活動していたスペインポップ界の伝説のグループ「El Ultimo de la fila」の ヴォーカリスト兼コンポーザー。グループ解散後、ファーストソロアルバム「Arena en los Bolsillos」 を発表し70万枚を越す大ヒットとなる。とにかく作曲のセンスの素晴らしい人で、彼の普段聴いたり 影響されてきた音楽を取り入れつつも、完全に彼の物に昇華している。また、少々情けなくも憂いを 帯びた歌声も説得力があり、心に響く。2001年3月に2作目「Nunca el tiempo es perdido」を発表し、その年のPremios amigoの最優秀アルバムを受賞。
Malu(マルー)
マルーは1982年マドリッド生まれ。父はカンタオールのぺぺ・デ・ルシア、叔父はギタリストのパコ・デ・ルシアという音楽一家に生まれ育ち、 15才でデビュー。今ではスペイン・ポップの代表的な歌手のひとりに成長した。アルバム「Aprendiz」、「Cambiaras」、「Esta Vez」に続き、2003年に「Otra Piel」、2005年に「Malu」をリリース。スペインだけでなく、ラテンアメリカでも人気を博している。彼女の歌は「ポップ・ロマンティコ」と評されるほど愛をテーマにした歌が多い。
Maria del Mar Bonet(マリア・デル・マル・ボネッ)
1947年マジョルカ島生まれ。幼い頃からバレアレス諸島の民謡に親しんだ彼女は1967年、バルセロナに出て、Els Setze Jutgesとカタルニャ語で歌手活動を始め、メノルカ島の民謡4曲収録のファーストアルバムを録音。しかし、翌年フランコ政権の検閲により、"Que volen aquesta gent?"を歌うことを禁じられる。
カタルニャ政府が贈る最高の賞であるサン・ジョルディ十字賞を1984年受賞しているほか、カタルニャ音楽貢献の功績を認められ、1992年には国家音楽賞も受賞、ユネスコ主催のコンサートにも度々招待され、現在は活動の場を世界各国の舞台に広げている。
Marta Sanchez(マルタ・サンチェス)
1966年5月8日、マドリッド生まれ。父親はオペラ歌手。初聖体拝領にギターを贈られて以来、マルタの人生は音楽と切り離せないものとなり、 14歳でテレビ番組「Sabadabada」に出演、その後「Cristal Oskuro」というグループの一員としてマドリッドを拠点として活動していたが、 19歳のとき当時の人気グループ'Ole Ole'のメンバーに見出され、ボーカルとなる。1986年'Ole Ole'に入って最初のアルバム 「Bailando sin salir de casa」がリリース、ゴールド・ディスクとなる。翌年「Los caballeros las prefieren rubias」を発表、このときから マリリン・モンローをイメージして髪をプラチナブロンドに染める。その後1990年の解散までに'Ole Ole'としては2枚のアルバムを出し、 マルタはソロ活動を始める。1993年にソロとして初のアルバム「Mujer」をリリース、95年「Mi mundo」を出した後、97年には自身の作曲した 数曲を含む「Azabache」を発表。98年の「Desconocida」はリリース直前に亡くなった彼女の父に捧げられた。
M-Clan(エメ・クラン)
1992年ムルシアでカルロス・タルケとリカルド・ルイペレスによって結成されたグループ。 'Los mierda'、'Murcialagos'というバンド名を経て、93年サンティアゴ・カンピジョ、パスクアル・サウラ、フアン・オテロと イニゴ・ウリベの参加と共に名前を'El clan de los murcielagos'に変え、その後'M-Clan'と名乗るようになる。 ライブとデモテープ製作を繰り返していた彼らはアメリカでレコーディング、初めてのアルバム「Un buen momento」を95年にリリース。 97年「Coliseum」、99年にイニゴが脱退、ルイス・パルドが加入する。元テキーラのアレホ・エスティバルをプロデューサーに迎えて製作した 「Usar y tirar」はプラチナ・ディスクとなり、シングルカット曲「Llamando a la tierra」も大ヒット。スペインを代表するロックバンドの仲間入りを果たす。
Miguel Bose(ミゲル・ボセ)
有名闘牛士(ルイス・ドミンギン)とミス・イタリアで歌手・女優だった母との間に1956年父の興行先パナマで誕生。 幼少時代をスペインの田舎や仏カンヌで過ごし、家族ぐるみの友人だった画家パブロ・ピカソに詩作の才能を見出された。 17歳の時ダンスの勉強のために妹とともに渡英。19歳の誕生日(75年)には3本の映画出演契約を結び、歌手カミロ・セストの勧めにより「Soy」で歌手デビュー。1984年にシングル「Bandido」が大ヒットする。その後政治的なメッセージを含んだ「Bajo El Signo de Cain(93)」「Laberinto (95)」「 Lo Mejor de Miguel Bose(99)」など、これまでに26枚のアルバムを発表、ボセの世界は2005年12月リリースの7枚組ベストアルバムで堪能することができる。スペインのみならず伊仏で俳優としても活躍。
Mojinos Escozios(モヒノス・エスコシオス)
セビジャ出身者3人とカタルニャ出身者2人で構成されるロックグループ。無名時代に音楽フェスティバルでプロデューサーの目に止まり、1996年ファーストアルバム“Mojinos Escozios”をリリース。セカンドアルバム“Demasiao perro pa trabaja - demasiao carvo pal rocanro”が20万枚以上の売上を記録、シングルカットされた“Chow Chow”も大ヒットする。
スペイン南部のアクセントで歌うカタルニャのグループとして徐々に知られる存在となりつつあった1997年、初めての全国プロモーションツアーを敢行した。これまでに6枚のアルバムをリリースしており、最新アルバムは今年リリースの“Opera Rock Triunfo”。この他のアルバムのタイトル、曲名、歌詞ともかなりふざけた内容。
Monica Naranjo(モニカ・ナランホ)
モニカ・ナランホはフィゲラス(ジローナ)生まれで、幼少時には画家ダリとも仲良くなり、いつも「自分の心に素直になれ。常にアナ―キーでいろ」と教えられていたとか。ダリとの出会いや幸せな家庭に恵まれず、鬱屈した気持ちがアーティストとしての才能を引き出したのかも知れない。1994年にアルバム「Monica Naranjo」でデビューし、国内よりもメキシコで大ブレイクした。 2作目の「Palabra de Mujer」の後2年間活動を休止していたが、2000年「MINAGE」で復活。「Sobrevivire」が大ヒットとなった。モデルのようなスタイル、ロングヘアを真中から2色に染めるなどで、今日の“ディーバ”としての地位を築いた。2005年2枚組のベストアルバム「Coleccion Privada」をリリース。
OBK(オー・ベー・カー)
OBKのジョルディ・サンチェス(ボーカルと作曲)とミゲル・アルホナ(キーボードと作詞)の2人がサン・フェリウ・デ・ジョブレガッで出会ったのは1982年。エレクトロポップ好きの2人が結成したデュオの名前OBKは、2人が影響を受けたバンド、デペッシュ・モードの曲、"Oberkorn"にちなんで名づけられた。以降、各レコード会社にデモテープを送りつづけるがテクノバンドは相手にされず、1991年にようやく"Llamalo sueno"でメジャーデビュー。これがいきなり40万枚の売上を記録し、その後も7枚のアルバムをリリースしている。2003年3月発表の"Babyron"では、成熟したOBKのテクノ・ポップを聴くことができる。
Pedro Guerra(ペドロ・ゲラ)
1966年7月2日、テネリフェ島グイマルに生まれる。18歳で大学都市ラ・ラグナに引越し。 翌年ロヘリオ・ボタンス、アンドレス・モリナと“Taller Canario de Cancion”を結成。 ファーストアルバム“Trapera”は1987年、翌年“Identidad”、89年“A Por Todas”、 91年リリースの“Rap A Duras Penas”にはホアキン・サビナ、ルイス・エドゥアルド・アウテなども参加。 93年ソロ活動開始、数々のアーティストに曲を提供する傍ら、 95年にソロアルバム“Golosinas”を発表。以降ライブ盤を含め5枚をリリースしている。
Rosana(ロサナ)
1963年カナリアス諸島ランサローテ島生まれ。8人兄弟の末っ子。 ギターを学ぶために20歳でマドリッドに上京、 1994年までは他のアーティストに曲を提供していたが、 この年Festival de Benidormで初めて自分で作詞作曲した'A fuego y miel'を発表、 Universal Music Spainと契約。1996年ファーストアルバム'Lunas rotas'で遅咲きのデビュー。 ヒットチャート14週1位、スペインでの売上100万枚以上、の大ヒットとなる。 98年2枚目のアルバム'Luna Nueva'(自身で作詞作曲、プロデュースを担当)、 2001年に3枚目'Rosana'をリリース、シングルカット曲“Pa ti no estoy”が大ヒットした。
Seguridad Social(セグリダ・ソシアル)
1982年Jose Manuel Casanがリーダーとなったバレンシア出身のこのバンドは、スペインのみにとどまらず、フランス、プエルトリコ、ドイツやアメリカにもファンを持つ。パンクを色々なスタイルの音楽と融合させ独自のスタイルを確立、『Chiquilla』『Tenochtitlan』といったヒット曲を出した後、しばらく活動が見られなかったがその後Tequilaのトリビュート・アルバムで『Salta! 』の新バージョンを発表して復活。
融合する音楽はスカからサルサ、ソウル、アンデス山脈の民族音楽にまで広がるほか、 新しい楽器の取り入れにも挑戦を続けているが、あくまでも彼らの音楽スタイルの原点はロック。 2002年には活動20周年を記念してベストアルバム『Gracias por las molestias』をリリース。
Sidonie(シドニー)
シドニーは1997年にバルセロナの職安のクラスで一緒になったマルク(Vo. G. P.)、ヘスス(Vo.B.)、アクセル(D.)の3人で結成されたバンド。 それぞれ社会人や学生。現在はBip Bip Records所属。影響を受けたアーティストはストーンズやベルベット・アンダーグラウンドなど。 2000年に5曲入りのミニLP「Dragonfly」でデビュー。初めてのコンサートは、バルセロナ、オーシャン・カラー・シーンの前座を務めた。 2001年には初めてのアルバム「Sidonie」を発表。歌詞は全て英語。最近のスペイン・インディーズポップ界では日増しに人気が出てきている。
Siniestro Total(シニエストロ・トタル)
1981年12月、ある交通事故をきっかけにビーゴで結成されたパンクロック・ガジェゴ(ガリシアのという意味)グループ。 翌年アルバムデビュー「 Cuando Se Come Aqui?」。83年にマドリッドの新人登竜門的クラブ「Rock ola」で演奏したが、 国営TVで放送禁止となる。6枚目のアルバム「En beneficio de todos ('90)」がゴールドディスク受賞。 以前からコラボレーション関係にあったアレックス・デ・ラ・イグレシア監督の95年公開映画“El Dia de la Bestia”のサントラに 「Mi nombre es legion」が起用される。オーディオ・ビジュアルや演劇の要素を取り入れたコンサートなど凝った演出も特徴。



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