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スペイン音楽のアーティスト達《世代を問わない編》

スペインで知られているアーティスト達、スペインで世代を問わず広く愛されている アーティスト達って?
ヒットチャートの常連とはいきませんが、スペイン人なら誰でも知っている歌手を紹介します。

Camilo Sesto(カミロ・セスト)
1946年9月16日アリカンテ県アルコイ生まれ、本名カミロ・ブラネス。 ロス・ボティネスのボーカルから1966年ソロデビュー、映画にも出演するが、 ファーストアルバムは全く売れなかった。彼の本当のキャリアが始まったと言えるのはフアン・パルドと知り合ってからで、 1972年"ALGO DE MI" がついに大ヒットとなる。その後およそ10年間、 カミロ・セストはヒット曲を次々に世に送り出すが、70年代終わりから彼の人気には翳りが見え始め、 86年彼はマイアミに引越し、歌手活動からの引退を宣言する。しかし91年、息子カミロの頼みで歌手活動再開。
Isabel Pantoja(イサベル・パントハ)
セビジャ出身。貧しいフラメンコファミリーの4人兄弟の2人目として1956年に生まれる。 7歳のとき、当時父親が出演していた劇場で初めて舞台に立ち、14歳のときにいとこのアントニオ・コルテス“Chiquetete”の舞踊団にダンサーとして入り、グループのスターとなる。17歳で父親に付き添われてマドリッドに上京。歌の才能を見出され、フアン・ソラノ氏に師事し、1970年初めてレコードを録音。肝臓病を患っていた父親が亡くなった後、家族の生活を支えた彼女は1983年闘牛士フランシスコ・リベラ・パキリと結婚するが翌年夫が闘牛中に事故死。 ひとたび歌の世界から身を引いたが1985年亡き夫に捧げるアルバム“Marinero de Luces”で復活。 その後ほぼ毎年アルバムを出し、映画にも主演、精力的に活動し、ゴシップ雑誌、番組でもすっかりおなじみの存在。 2003年12月にはクリスマスアルバム“Mi navidad flamenca”をリリース。
Joan (Juan) Manuel Serrat (ジョアン・マヌエル・セラッ)
1943年12月27日、市民戦争直後のバルセロナの労働者の家庭に生まれる。工業技術専門家になるべく勉強を続けるかたわら ギターを弾いていたセラは1964年ラディオ・バルセロナで自分の曲を披露。すぐにレコード会社と契約、アルバムを製作することになった。 カタルニャ地方の'Nova Canco(新しい歌という意味)'の代表的歌手となったセラは68年、スペイン代表としてのユーロビジョン出演の依頼を 「カタルニャ語で歌えるなら」と断り、以来6年にわたってテレビシオン・エスパニョラに出演禁止となる。死刑反対を求めてモンセラの 修道院に立てこもったり、1975年には彼の言動がもとで1年間の亡命生活を余儀なくされるなど、セラはスペインでも中南米でも 自由のシンボル的存在歌手で、代表作は「Mediterraneo(1971)」、「Sombras de la China(1988)」など枚挙に暇がない。
2003年10月リリースの“Serrat sinfonico”で、オーケストラをバックにヒット曲を歌っている。
Juan Pardo(フアン・パルド)
1942年11月11日、マジョルカ島のパルマ・デ・マジョルカ生まれ。1962年ロック歌手としてデビュー、 ソロでの活動の後、"Los Vandalos"、 "Los Relampagos"、 "Los Pekenikes"、 "Los Brincos"のボーカルとして活躍、 その後 "Los Brincos"から独立したデュオ"Juan y Junior"で活動するが、性格の不一致から解散。批評家達の予想を裏切り 1969年発表のシングル"LA CHARANGA"が大ヒット。同年、アルバム"JUAN PARDO"もリリースする。自身の活動と平行し新人の 発掘育成にも力を入れたフアン・パルドはMarisol、Camilo Sestoなどを世に送り出した。1975年にフアン・パルドは スタイルを変更、ロックとポップの影響を取り入れたスペイン語でのロマンティックな曲を作曲、歌うようになり今日にいたる。 英語での曲のほか、母親の出身地であるガリシアの言葉で歌った曲も多い。2001年には"Trigeneracion"を発表。 このCDは1960年代から80年代まで、Los Brincosからの曲を集めたベスト盤。
Los Chunguitos(ロス・チュンギートス)
アスカル・モレノの兄弟。1977年、世界的レコード会社であるEMIに直接売り込みに行き、契約にこぎつける。 当時はジプシーとフラメンコ関係者だけの音楽だったフラメンコのルンバを一般大衆向け音楽として浸透させた。 "PERROS CALLEJEROS" (79)、"DEPRISA DEPRISA" (81) の映画のサントラで一気に有名に。しかし、 グループの音楽のカギを握るエンリケ・サラサールが死亡、彼らのキャリアも終わったかに思われたが、 カメラも所属するレコード会社PRODUCCIONES ARと1998年に契約、復活を遂げた。 夏の音楽番組の常連。
Los del Rio(ロス・デル・リオ)
ドス・エルマナス(セビジャ)出身のアントニオ・ロメロ・モンへとラファエル・ルイスのデュオ。靴屋で働くアントニオとバルで働くラファエルが歌うのを聞いた友人たちがデュオを組むことを勧め、1963年ラジオ番組に"Los Rios"という名前で出演、のち名前を"Los del Rio"に変更した。名前にRio(川)を入れているのは、故郷を流れるグアダルキビル川に敬意を表すため。 93年リリ−スのマカレナの大ヒットで世界的に有名になった彼らだが、初めて彼らがレコードを出したのは1966年で、マカレナがヒットするまでにも30枚以上のレコードを出している。
Manolo Escobar(マノロ・エスコバル)
1932年10月19日アルメリア県エル・エヒドに10人兄弟の5人目として生まれる。農夫の父親が兄弟のうち興味を示した子供には 音楽教育を施し、14歳でマノロはバルセロナに移住する。建設現場、工場などで働き、兵役終了後夜学に通いながら兄弟3人で 音楽活動を始め、その後3人とも郵便局職員試験に合格。仕事のかたわらパーティーで演奏していた彼らをラディオ・バルセロナの 関係者が見出し、成功への道が開け始める。1959年、音楽活動に専念するためマノロは郵便局を退職、フランスとドイツで コンサートツアーを行う。彼の成功を決定的にしたのは1960年リリース、「el poromponpero」。その後も「Madrecita, Maria del Carmen」、 「Horoscopo」等次々とヒットを飛ばし、1963年には「Los uerrilleros」で銀幕デビュー。これまでにリリースしたレコードは80枚近く、 そのうち24枚がゴールデン・レコード、19本の映画にも主演している。主に60年代から70年代にかけて活躍した歌手だが、 代表曲「Y viva Espana」はスペイン人なら誰もが知っている曲。
Nino Bravo(ニーノ・ブラボ)
1944年8月3日バレンシア生まれ。4歳でマドリッドに引越。本名ルイス・マヌエル・フェリ・ジョピス。兵役隊後事務職に就くが、 音楽好きで友人と流しのバンドを組み、演奏。ミゲル・シウランにより見出され、1969年ニーノ・ブラボとしてバレンシア大劇場に出演、 レコード会社と契約、1970年夏、「Te quiero, te quiero」が大ヒットとなり、その後ヒット曲を出し続ける。 スペイン代表として出場したユーロビジョンでは2位となり、1971年結婚、翌年長女が誕生、歌手としてのキャリアも上り坂だったニーノだが、 1973年4月16日バレンシアからマドリッドに向かうグレーのBMWが高速道路のカーブでスリップ、道路から飛び出した。 乗っていた4人のうち3人は重傷を負ったものの命は取り留めたが、運転していたニーノ・ブラボは 数時間後病院で亡くなった。享年28歳。代表曲は「Libre(カバー曲がヒットしたり、CMに使われたりもしている)」「Noelia」など。 2003年には没後30年を記念して「Todo Nino」が発売された。
Raphael(ラファエル)
1943年リナレス生まれ。生後9ヶ月で家族とマドリッドに引っ越す。9歳でヨーロッパ最優秀小児歌唱賞受賞、 14歳でプロとしての活動を始め、これまでに製作したレコードは76枚にも及び、9本の映画でも主演。 スペイン現代音楽のパイオニアとして世界各地でコンサートを行い、スペイン語圏では誰もが知る存在。1987年にはデビュー 25周年コンサートをサンティアゴ・ベルナベウ・スタジアムで行い、11.4万人のファンが駆けつけた。特徴のある風貌と独特の立ち居振舞いで 物真似の対象にもよくなっている。代表曲は「Yo soy aquel」、「Escandalo」など多数。クリスマスになると彼の特番が組まれ、多くの 熟年女性を魅了している。
Rocio Jurado(ロシオ・フラド)
1946年9月18日、カディス県チピオナ生まれ。靴職人の父親がフラメンコ好きで、パーティーを開いては幼いロシオに歌わせていた。 父の死後、母に伴われマドリッドに上京。タブラオ“El Duende”で歌手としての仕事を始め、その後Manolo Caracolに引き抜かれ 彼のタブラオ“Los Canasteros”へ。その後"Los guerrilleros"でマノロ・エスコバルと共演し1962年に銀幕デビュー。 アルゼンチンで活動していた時期もあったが、スペインに戻り歌手、女優として活躍。ロシオ・フラドは“La Jurado”として、 元ボクサーペドロ・カラスコとの一人娘ロシオ・カラスコ“Rociito”と共にゴシップ番組の常連となっている。 歌のうまさには定評があり、スペイン歌謡界を代表する歌手の1人。イサベル・パントハとよく比較される。



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