〜 一番恐ろしい月は八月 〜
1747年6月12日、セビリアで闘牛の角にかかって殺された槍方(Picador),マルコス・サエス(Marcos Saez)から、1947年8月28日ハエン県リナレス(Linares)の闘牛場でミウラ牧場の闘牛に殺された闘牛士、マノレテ(MANOLETE=Manuel Rodriquez)までの200年間に、不幸、不運にも闘牛の角にかかって死んだ、Torero(正闘牛士),Novillero(見習闘牛士),Picador(槍方),Subalterno(助手)などの数は以下の通りです。
Novillero・・・・・125名
Subalterno・・・・・124名
Picador・・・・・59名
Torero・・・・・48名
その他・・・・・9名
総計・・・・・・・・・・・・365名
200年間に365名の闘牛関係者が死んでいます。記録的には、見習闘牛士、 助手の死が圧倒的に多く正闘牛士、槍方の死が少なくなっています。これは闘牛に対 する知識、技術の差が出てくるものでしょう。助手の多くは、Toreroになれなかった 人々です。能力的に、あるいは幸運に恵まれなかった人々と見たほうが良いかもしれ ません。中には、助手としての能力が上回っていた人々もいる筈です。
今世紀初頭、プリモ・デ・リベラ時代に槍方の乗る馬にプロテクタ−を着用する ことを、義務付けられてからは、槍方の死は少なくなりました。それまでは、馬自体 もかなりの数で、闘牛の角にかかって殺されていました。馬がやられれば、槍方も当 然、危険にさらされるわけです。危険を避けるべき、能力、技術が必要でした。当時 は、まだ槍方もスタ−の時代だったことを、忘れてはいけません。
市民戦争(1936―1939年)後、闘牛の角にかかって命 を落とした闘牛士の数は、極端に少なくなってきています。フレミング博士のペニシ リン発見に伴って、破傷風などの合併症で死ぬ闘牛士などもなくなっています。伝統 的に多くの有名闘牛士は、医療施設もない、田舎の小さな町で出血多量で死んでいま す。
最近の記録では、1984年9月26日,闘牛士パキ―リ(PAQUIRRI=Fransisco Rivera)が、小さな村から角傷のためコルドバ市への移動途中、救急車の中 で出血多量で死に、その翌年、1.985年8月30日、そのPAQURRIの命を奪った 闘牛を殺したホセ・クベロ(Jose Cubero,YIYO)闘牛士が、マドリ−ド郊外コルメナル・ビエホとい う町で、試合中心臓を角で一突きされ絶命、21歳という若さでした。1984年9月26日、二人のToreroはコルドバ県ポッソ・ブランコという町の闘 牛場で戦っていました。そして出場闘牛士3人目のエル・ソロ(EL SORO) は95年より足首の負傷で、数十回の手術をほどこして いますが、現役復帰の可能性はゼロに等しいようです。闘牛界は諺を担ぐ世界で す。何の因果か不可思議ですが、三人目の闘牛士の闘牛出場がない限り、Arena(砂場)での 死はなさそうです。
有名闘牛士が砂場で死ぬと、サッカ−におされ気味の闘牛界に、急に観客が増えるのは一体どうしてでしょうか。 闘牛が、本当に真剣勝負だということが分かるからでしょうか。闘牛と闘牛士の生死の 戦いのスリルが、人間の心の奥底に潜む残忍さを満足させるのでしょうか。
200年間の記録を見ると、8月、9月、6月、5月、7月、4月、10月の順に事故が少なくなります。 8月、9月と言うのは、一番フィエスタ(祭り)の多い月でもあり、そのフィエスタに欠かせないのが、Corrida de Toros (闘牛試合) であることを考えれば、この順位も当然のようです。どこの闘牛場が一番悲劇的であったかとういうと、マドリッド、セビ−ジャ、バルセロナ、バレンシア、サラゴサの順になり、マドリッドの闘牛場は現在のLas Ventasのものではありません。事故は第一級闘 牛場が一番多い結果がでていますが、NovilloよりもToroの方がより危険度が高いと いうことです。牧場関係では、ミウラ(Miura)神話を作ったMiura、コンチャ・イ・シエラ(Concha y Sierra)、ペレス・デ・ラ・コンチャ(Perez de la Concha)牧場などが、記録として残されている一番危険な牧場ということになります。
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