1999年5月20日、クリスチ−ナ サンチェスは、突然の闘牛界からの<引
退>を、マドリッドサン イシドロ祭、真っ最中に発表しました。理由は、「自分
は、小さな村村の闘牛に出場するカテゴリ−の闘牛士ではなく、有名な祭りの闘牛に
出場するカテゴリ−の闘牛士なのに、出場契約書がこない。」と言う事でしたが、こ
れは暗に、有名闘牛士達が彼女と一緒に出場したくないという<妨害>があったこと
を含めています。
闘牛界は、言わずと知れた<男の世界>、その男の世界に女として立ち向
かった彼女も、十数年に渡る、中傷と妨害工作に反発、自分は一流の闘牛士であると
いう<名誉と誇り>を守るための引退であったようです。
1996年5月25日、ニ−ム。この日は、ヨ−ロッパ闘牛界で記念すべき日になりました。 南仏、ニ−ムの旧ロ−マ コロッセオ闘牛場で、ヨ−ロッパ初の女性闘牛士の進級式が行われま した。介添え役闘牛士、Curro Romero、証人闘牛士、Jose María Manzanares といった 当世第一級ランクの闘牛士による豪華な進級式でした。進級闘牛士は、Cristina Sánchez 24歳、マドリッド出身の女性でした。
クリスチ−ナの名前が、闘牛愛好家の耳に到達するのは、1991年マドリッド闘牛学校内コン
ク−ルで準優勝を獲得した時でした。いわゆる<男の世界に、また・・女・・が出て
きたか>と物珍しさが手伝って、一度見てみたいな、との印象が強かったようです。
実際に観戦すると、確かに飛びぬけているが、女性の弱点である<La hora de la
Verdad>剣が未熟なのが目に付き、その内、消えてしまうだろう、との予想が大半を
占めていました。
しかし、クリスチ−ナはその後4年間、マチズム(男尊女卑−男世界)の中で、女性闘牛士
としてでなく<TORERO>として、不合理な差別と戦い、1995年7月8日、マドリッド・ベンタ
ス闘牛場に出場、女性闘牛士として、初めて、ベンタス闘牛場のPuerta Grande(大
門)から肩車で出、闘牛界の評論家達をアッといわせました。一週間後、再出場、闘
牛士としてのValor<価値>を認めさせ、Puera Grandeはプレゼントされたものでな
いことを証明、9月12日には、セビリア、マエストランサ闘牛場で、耳を2枚切
り、Puerta Principal(主門)となり、大変な・・クリスチ−ナ旋風・・を巻き起
こす事に成ったのです。その熱い風は、大西洋を越え、中、南米の闘牛界、第一級闘
牛場、メキシコ モニュメンタル出場へと繋がったのです。
l996年5月、サン イシドロ祭に出場、Novillera として最後の闘牛を
し、耳一枚を切り、Alternativa
【進級】への餞(はなむけ)としました。そして、1996年5月25日、ニ−ムが
やってきたのです。Jose Dominguín の<La Gente>と言う本によると、一万人に一
人しか、進級できないといわれる闘牛界で、それも男世界の中で、クリスチ−ナが進
級するということは、確率では、非常に低いものの<IMPOSIBLE>ではなかったので
す。それも、田舎の小さな闘牛場で進級する闘牛士の多い中で、ニ−ムという南仏
きっての名闘牛場、その上、歴史に残る有名闘牛士による、進級式は、彼女が、
「並」の闘牛士でなかったことの証明です。
プリモ・デ・リベラ独裁になると、女性闘牛士として攻撃目標にされたMaría
Salome<La Reverte>、その後、政治が変わると、Juanita Cruzが活躍、
しかし、1936年(市民戦争)、彼女は海を越えてアメリカに移住してしまいま
す。Juanita Cruz の空白を、Conchita Cintrón(Rejoneadora y a pie)が埋めるので
すが、フランコ独裁で再び禁止令になり、彼女は、フランス、ポルトガルで活躍する
のみで、本場スペインの闘牛場の土は踏めずに終わってしまいます。その禁止令と戦
い許可を勝ち得たのが、アリカンテの女性、Angela Hernández で1974年のことで
す。金髪の美しい女性で、当時のEl Cordobésもちょっかいをかけたようです。
クリスチ−ナ サンチェスの記録を付け足しておきます。NOVILLADA l993--34試
合、1994--35、1995--28、
1996--21、CORRIDA DE TOROS 1996--67、1997-60、1998-40、1999--22、正闘牛士として
は、186試合を戦い抜き、1999年10月12日マドリッド・ベンタス闘牛場にて、
Fernando Cepeda、Javier Conde 闘牛士見守る中、髷(まげ)を切ったのです。
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その日、彼女と共に苦労した、彼女の助手としてCuardillaにいた父
親、Antonio Sánchezに進級第一頭目の闘牛の死を、
女性闘牛士の歴史は、<許可と禁止>の繰り返しです。時の単純な政
治現象で、許可か禁止が決まったようです。画家、ゴヤが不滅にした、Tomasa
Escomilla<La Pajuelera>から19世紀になると、Teresa Bols<La Belgicana>、Ignacia Fernández<La Guerrita>、最初にVestido de Luces<光の衣裳>を着用した
Dolores Sánchez<La Fragosa>などが出現しています。
現在では、スペイン各地の闘牛学校に20名ほ
どのAlumnaが登録しているようです。次のクリスチ−ナは、果たしてでてくるでしょ
うか。