スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第12章 恩人との別れ


『これを持ってお行きなさい』


 いつもの如く大きなヴァイオリンケースを持って家を出る。

以前、スペインへ持って行った大量生産のヴァイオリンでは無い。

ドイツで採れた1924年物のハンドメイドである。

勿論、私にそんな楽器を買うお金が有るはずも無い。細々と自営業を営む私の両親が、

私の決意を知って、自分達のリタイヤ後のために取ってあった蓄えを使って与えてくれた

のである。それが、彼らにとってどれだけ大切な蓄えであるかは重々承知していたが、

出世払いの約束でその好意を甘んじて受けた。


『しばらくの間、借りておくね、、、』


市バスに乗って15分で鉄道の駅に着く。そこで急行に乗り換えて1時間半ばかり

かかっただろうか、、、目的の駅に到着して、そこから徒歩10分程のところに、

T女氏の家があった。

再びのスペインへ発つ前の最後のレッスンである。


 いつもの通り、何人もいる生徒達のレッスンの後、最後に私の順番が回ってくる。

時間制限にとらわれず、ゆっくりと私の面倒を見られるようにとの彼女の心遣いだった。


 「通常、バッハ、モーツアルト、そしてロマン派のレパートリーを持っていれば、

 ほとんどの試験は受けられるわよ。とりあえず、限られた時間ではあったけれど、

 あなたに、これら3つのレパートリーを1曲ずつ教えました。あとは、あなた次第。

 スペインへ渡ったら、あちらで待っていてくれている先生について引き続き学びなさい。

 あなたのような晩学の人が、本当に良い演奏家になるのは、きっと難しいと思うけど、

 とっても良い先生にはなれるかもしれないわね。

 あなたは、一つのテクニックを学ぶための苦労とそれを克服するための様々な努力を

 して来た分、人の苦労も判ってあげられるでしょうし、自分の経験を生かして、

 いろいろな学習法を人に伝えることが出来るでしょう。」


 これが、T先生から承った言葉であった。

そして、彼女は、「ちょっと待っていてちょうだい」と言う一言を残して、

部屋を出て行った。


 一人残された私は、彼女にお世話になったこの1年近くの事を振り返り、

教えられた事を一つ一つ思い起こしてみた。

長いようで、ほんの短い間だったが、ここでも私の非現実的と言われても仕方の無い「夢」

のために、彼女にとんだ時間の浪費をさせてしまったのでは無いのだろうか。

毎回、どんな気持ちで私のレッスンをしてくれていたのだろうか、、、

そんな事に想いを巡らせているところへ、彼女が部屋に戻ってきた。


 「これを持ってお行きなさい」


 見ると、彼女の手の平には、小さく銀色に光るものがあった。

それは小さなヴァイオリンの形をしていた。

彼女のご主人は、やはり、日本ヴァイオリン界の重鎮であったが、1年程まえに

他界されていた。

私が初めて彼女を訪問したのは、ご主人が亡くなってまだ間もない頃だったのだ。


 「これはね、亡くなった主人が、いつも演奏会の時に愛用していたネクタイピンなのよ。

  これをあなたにあげるわ。スペインで頑張ってらっしゃい!」


 銀製のミニチュア・ヴァイオリン、、、それはご主人の形見だったのだ。

すぐに礼を言いたかったが、声にならなかった。


ゆっくり深呼吸をし、気持ちが落ち着いたところで、心からお礼を述べた。


 「本当にありがとう御座いました!」


今でもこの時の事を思い出すと、感謝の気持ちで胸が熱くなるのをおぼえる。


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