スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第18章 さらばバジャドリ


『日本語教えます。当方日本人。』


バジャドリのオーケストラには、アナやアンドレスの他に、何人かの外国人がおり、

その中に日本人も2,3人含まれていた。

そのうちの一人がヴァイオリニストで、彼と良く話をした。


「本当にやりたいんだったら、こんな町にいちゃ駄目だよ。

マドリッドへ行かなきゃ」


そう言われても、友人に囲まれ、とても居心地の良いこの町を出て行くのは、

容易な事では無かった。

また、マドリッドと言う大都会へ身を投じる事への何かしら不安と恐怖心があった。

それでも、彼から何度も助言をもらう内に、徐々にその決心も固まっていった。


『よし、マドリッドへ引っ越そう!』


 バジャドリに戻ってからすでに一年が経過していた。

最初の計算では、持ち金全てを使い切っても、せいぜい滞在できて一年だと

思っていた。

ところが、毎日差し入れをくれた姉妹のおかげで、随分とこの計算が良い方向へ

狂ってきた。

更に、友人から中華レストランでのウェイターのアルバイトを紹介してもらった

事により、予想外に伸びたのである。

このアルバイトも、たいした金にはならなかったが、それでも無収入と比べれば

大きな助けとなった。

それに何よりも、ここで働く事によって、週に2回、腹いっぱい食べることが

出来たのだ。ただし、労働条件は決して楽なものではなかった。


雇ってもらえたのは、あくまでも1週間のうちで最も忙しい時だけ、

つまり土曜日の夜と日曜日の昼間だけだった。

土曜の夜は約束では夜中の12時までのはずであったが、客が残っている限り、

帰らせてはもらえず、1時や2時になる事もしばしばだった。

くたくたになって帰宅したものだが、この仕事から得た収入は、時給にして

100円から150円程度だったと思う。

いろいろなアルバイトをやった中で、私が持つ最低賃金記録だ。

それでも、所詮は労働許可証すら持たない違法労働なのだから、たったこれだけの

収入でも、有り難く思わなければなるまい。


更に少しでも収入を得るために考えたのが、「日本語家庭教師」の仕事である。

ある新聞社へ行って、一言広告の掲載を申し出た。


「日本語教えます。当方日本人。」


こんな地方都市でも、中には物好きな人がいるのではないか、、、


私の予想は当たった。

二人ばかりの生徒を持つことが出来たのだ。

ただ、日本語教育論を勉強したわけでも無い私にとって、例え母国語であっても、

何の教材もないところで教えるのは至難の業だった。

この時ではないだろうか、、、私の人生の中で、最も熱心に日本語を勉強したのは。


そんなこんなで悪戦苦闘しながら、なんとか僅かでも収入を得るように努め、

これと日本から持ち込んだ資本金とをあわせて、可能な限り滞在期間の延長を図った。


いよいよ引越しの日が来た。

返しきれないぐらいの恩を受けたアナやアンドレス、そして、私がスペインへ

戻ってくる直接の原動力となった言葉をかけてくれたマリア・ホセ、

私のマドリッド行きを強く奨めてくれた日本人のヴァイオリニスト、

そして、実の家族に対するのと同様の愛情をかけてくれたバルの姉妹達みんなに

別れを告げた。


これら友人の励ましの言葉を胸に、私はスペインの首都マドリッドへと

向かったのである。


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