スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第19章 上京


『そんな怖い顔をしてモーツアルトを弾くやつがあるか!』


 ほんの僅かな所持品は、成田空港発の某航空会社運行のフライトにはその積載を

拒否されたが、私のおんぼろ愛車、フォードのフィエスタには問題無く収まった。

小さな車で一度に終えられる引越しである。なんと身軽な事か。

このおんぼろ車は、正真正銘私の物であったが、私にこのようなものを買うお金が

無かった事は言うまでも無い。

滞在が長引いてくると、いろいろな事が起こるものだ。


バジャドリの町に語学研修の目的で、毎年のように日本の某銀行から研修生が

送られてきた。

そして、その研修生の間で、代々、受け継がれてきた車がこれだったのである。


ところが、私が知り合った研修生の研修期間が終わる時、その次の代が

到着しなかった。

帰国直前になった彼は、もろもろの手続きをするのも面倒になり、私にこれを

くれたのである。

実に、私がこの車の第9番目の持ち主となった。


貰ってはみたものの、その後が実は大変だったのである。

持ち主がいなくなった後の譲渡手続きに、名義変更手続き。

更には、外人ナンバーで使用されていたこの車を、学生証であれ滞在許可証を

有する私が利用するためには、外人ナンバーから一般のナンバープレートに

変えるための、個人輸入手続まで踏まなければならなかったのである。


役所から役所へと、文字通りたらいまわしにされた。

勿論、それに伴い、車の運転免許証を持っていなかった私は、最低限の費用で

免許を取得すべく、猛勉強にはげんだ。

スペインの運転免許試験についても書き出せばきりが無いが、ここでは

省くことにしよう。


そうやって苦労して手に入れたフォード・フィエスタを運転しながら、

カスティージャ・イ・レオンの大地を南下して、ついにマドリッドに至った。

たった180キロの道のりだが、免許取りたての私にしてみれば、この引越しは

それなりに大冒険だったのである。


かつて16世紀には、世界最大の国となったイスパニア帝国の都である。

その堂々たる町並みには、感嘆の念を禁じえない。

重厚な建物、噴水を飾る彫刻、歴史を伝える凱旋門と、目に入る全てのものが

感動に値するものであった。

この時、今まで私が抱いていたスペインとは違う別の国、大イスパニア帝国の

過去と現在を見た、そんな感を受けた。


 初めて車で訪れる者にとって、この町は決して運転しやすい町ではない。

旧市街に一歩入り込むと、道は細く、入り組んでおり、一方通行も多く

抜け出すのが大変である。


とにかく、細い道は避けるようにし、メイン道路ばかりを選んで走る。

何度か道を尋ねながらようやく辿り着いたのは、町の北の出口、プラサ・デ・

カスティージャの傍にある知人のマンションであった。

これからは、ここで間借りをしてお世話になる事になっていた。


そこに住む大家は、私よりも少し年上の日本人夫婦だった。

マドリッドへ引っ越して、右も左も判らない私に、この町で住むにあたっての

注意事項、便利な店、日本食レストランなどなど、なんでも教えてくれた。

良い意味でも悪い意味でも大都市であるこの町で、何のトラブルもなく、

安全で快適な生活のスタートを切れたのは、このご夫婦のおかげだった。


住むところが決まり、こまごまとした身の周りの整理がつくと、本来の目的を

果たすため、即、行動に移った。

この町にあるマドリッド王立音楽院のヴァイオリン学科の学科長に会うのだ。


この人物を紹介してくれたのが、バジャドリオーケストラで働いていた

例の日本人ヴァイオリニストである。

彼もかつて、この学科長ペドロ・レオンに師事していたのだ。

音楽院で教えながら同時にスペイン放送管弦楽団のコンサートマスターをも

務める彼は、極端に多忙な人であった。

それでも無理を言って、会うチャンスを作ってもらった。

これから王立音楽院のヴァイオリン科に編入するにあたって、どのレベルから

始めるかを決める試験があるのだが、その時の審査員の一人が、このペドロである。

ならば、試験を受ける前に、一度は彼と面識を持ち、多少の出費は覚悟の上で、

彼のレッスンを受けておこうと思ったのである。


彼は非常に暖かく迎えてくれたが、流石に、これだけの人物を目の前に弓を持つと、

すっかり緊張してしまった。

しかし、ここで逃げ出す訳にも行かず、恐る恐る震える弓を動かす。

弾いてみろと彼から命じられたのは、モーツアルトだった。


もともと、下手なくせに、これだけ緊張すると、もはや聞けたものではない。


自分でも情けないぐらいに上手く弾けなかった。

音程は狂うし、音はつぶれるしで、ただただ、彼に呆れられるのが怖かった。


その時である。彼の口から予想外の言葉が飛び出したのは。


「こらこら、そんな怖い顔をしてモーツアルトを弾くやつがあるか!」


これには、拍子抜けした。日本では音程のずれやテンポの狂い、

そして音のつぶれなどを指摘されるのが当たり前だったが、そんな事には

一切触れず、顔の事を注意されたのである。

これはもう、単純にカルチャーショックであった。


「そんな怖い顔をして弾く曲じゃないだろう? どれ見ていてご覧。

これはこうやってにこやかに、朗らかに楽しく弾くんだよ。」


そう言うと、彼は、満面に微笑みを浮かべながら本当に楽しそうに弾いて見せた。


結局、この日、私が彼から教わったのは、それだけである。

そう、「笑いながら弾け!」、たったそれだけなのだが、余りにもショックな

出来事であった。


そうか、、、音楽とはこう言うものなんだ。


父親が音楽が好きであったこともあり、4歳の時からピアノを習わせてもらって

いたのだが、今、この歳にして、初めて音楽とは何なのかが判ったような気がした。

長年かけて全く気づかなかった事に、たった一言で気づく時もあるようだ。

このペドロとの出会いは、実に不思議な、そして有意義なものだった。


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