スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第20章 苦学と充実感、そして不安 (前編)


『冷奴1つとお酒を1合』


 編入試験を終え、私はマドリッド王立音楽院のヴァイオリン学科6年生から始める事となった。

順調に進めば、あと数年で正式に卒業である。

そうすれば、どこか地方都市のオーケストラの入団試験を受けて、アナやアンドレスのように

質素な生活をしてみよう。 そんな事を考えていた。

問題は資金である。

それまで滞在を可能にするためには、また何か仕事を探さねばなるまい。

これまた違法労働だが、この時代、スペインではまだまだ、そう言う事は極一般的であり可能だった。

違法移民や違法労働者の数が今ほどは多くなかったのである。

とりあえず、手っ取り早いのは、日本食レストランのアルバイトだった。

マドリッドには数件の和食レストランがあったが、その中の一つ、レストラン「どん底」と言う店の

オーナーにお願いした。

ここは、私にとって大きな思い出のある場所だったのである。


 かつて、初めてスペインへ語学留学でやってきた時、バジャドリ大学の外国人コース主催の活動に、

近郊の町々への小旅行があった。

通常は日帰りコースで近場の町へ行ったものだが、一度だけ1泊2日の旅行があり、その行き先が

首都マドリッドだった。

初めての外国暮らしで、スペイン人家庭でのホームステイをしていた私は、特に食べ物に

好き嫌いは無かったが、それでもやはり、だんだんと日本の食事が恋しくなっていた。

そんな時である、マドリッドへの研修旅行があったのは。

たった1泊だったが、それでもそのチャンスを逃さなかった。

夜になって全てのスケジュールが終わり自由になると、日本人の友達3人程でホテルを抜け出した。

ここは都会だけあって、日本食レストランがあると言う事を知っていたのである。

いくつかあったレストランの中で我々が選んだのは「どん底」と呼ばれる、当時は小さな店だった。

いつも満員で、随分待たないと食事にありつけない。

我々は気長に待ち、そうこうしているうちに、やっとカウンター席に空席が出来た。


居酒屋風のカウンターに腰掛けた我々3人の貧乏学生は、おそるおそるメニューを開いた。

このレストランは、昔から庶民の味方とでも言おうか、とにかく全てのメニューにおいて、

非常に良心的な値段が付けられていた。

しかし、どれだけ値段が安くても、我々の財布はそれ以上に貧しかったのだ。

満員の中、閉店間際になって、やっと通してもらったこのチャンスに、何も食べずに帰る事も出来まい。

3人は顔を見合わせながら、迷惑だろうと知りつつ、意を決して注文した。


「冷奴一つとお酒を1合、お願いします」


箸を3人分もらい、お猪口も3つもらい、たったこれだけの注文である。


お店の人にとって、さぞかし奇異に映ったのではなかろうか。或いは、この時代、

こんな貧乏学生はよくいたのだろうか。


その6センチ四方の宝石のような冷奴に順番に箸を入れた。

そして、1合の酒を3つのお猪口に注ぎ、3人で乾杯をしたその瞬間、急に胸がいっぱいになり、

目頭が熱くなり、うかつにも涙を見せてしまった。

これ程旨いと感じた豆腐と酒があっただろうか。

私の飲兵衛遍歴の中でも、記録すべき一夜となったのは言うまでも無い。

そして、このレストランと私との縁は、これだけでは終わらなかった。


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