スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第20章 苦学と充実感、そして不安 (後編)


『すみません、夜だけお願いしたいのですが』


 それは、日本へ帰国する前に、再び、マドリッドを訪れた時の事である。

友人と一緒にバルセロナから夜行列車に乗り、マドリッドへ向かったのだが、

真夏であったため、寝台列車の中は冷房がつけられていたが、これが効きすぎで、

異常なぐらいに寒かった。

夏用の薄着しか持っていなかった私は、寒さを我慢しながら一夜を明かしたが、

マドリッドに到着した時には、完全に体調を崩していたのである。

本能的に「どん底」のすぐ傍のホテルに宿を取った。

なんとかチェック・インはしたものの、あっという間に熱はあがり、40度を越えた。

日本から持参していた頓服薬も全く効き目が無く、看病してくれた友人も途方にくれた。

ついには何も喉を通らなくなり、医者を呼んでもらうと、扁桃腺の腫れから発熱している事が 判った。

抗生物質を処方してもらい、注射を打ってもらうと、一時的ではあれ、熱も引き始め、

ひとまず私も友人も安心したのだが、その夜中、トイレに立った時に突然くらっとしたその瞬間、

意識を失った。


 どれぐらいの時間がたったのだろう。

無意識の底から徐々に現実へと戻りつつあった。


真っ暗である、、、


徐々に記憶が戻ってくる。


そうだ、私は用を足しに来たのだ。そして、その瞬間、そう、きっと倒れたのだ。

頭が痛い。床で頭を打ったのだろうか?


180センチ近くある私の身長だ。倒れて、この硬い床で頭を打ったとすれば、

ただでは済むまい。

私は急に不安に襲われた。


大袈裟な話だが、もしや、自分はすでに死んでいるのでは、とまで考えたのだ。

それを確認するのが怖かった。

目を開けたら、自分は宙に浮いていて、頭から血を出して床に横たわる自分の姿を眺めている、

などという光景が想像された。

しばらくは目を開ける勇気を持てず、そのまま時がたつのを待つうちに、だんだんと、

なんとなく自分がまだ生きていると言う実感を持ち始めた。


このまま倒れている訳にもいくまい。

ありったけの勇気を搾り出して、ゆっくりと目を開けてみる。

天井が見えた。薄暗い裸電球が、はるか高い所で弱々しく私を照らしている。

どうやら、宙に浮きながら自分の遺体を眺めると言う想像は外れたようだ。


次に勇気を出してやった事は、手を動かしてみる事だった。

そして、これが自由に動くのを確認すると、思い切って右の手で、ずきずきと痛み始める

頭を触ってみた。

そう、おそらくべっとりと赤い血に手が染まるのを想像しながら。


しかし、幸いこの予想も外れた。

自分の手に一滴の血もつかなかったのを確認した時、やっと心が落ち着いた。

そして、私の乏しい知識が、頭を打ったあとは、おそらく急に動かない方が良い、と教えてくれた。


丸2日間、寝ずの看病の後、医者に診てもらった事で、緊張が解けたのだろう。

深い眠りに落ちた友人は、どうやら私が倒れた物音では目を覚まさなかったようだ。

助けを呼ぶ声も出ない。

とにかく、そのままの状態で半時間程、動かずにいたが、やがて、スローモーションビデオのように

ゆっくりと起き上がろうとしたが、這うのがやっとで、2本の足で立ち上がる事は出来なかった。

とりあえず、床に座りなおし、壁にもたれながら状況を把握しようと努力した。


あの時、私は小便をした後、上から釣り下がっていた鎖を引っ張って、トイレの水を流そうとしたのだ。

そして、その瞬間、私の手から鎖がするりと抜けて、、、そこまでの記憶はよみがえった。

きっとそのまま倒れたのだろう。

と言う事は、狭いこの部屋で直接私の頭が激突したのは床ではない。

その前に、どうやらプラスティック製のバスタブで打ったのだ。

そして、そこでワンクッションおいてから、床に倒れ落ちたに違いない。


不幸中の幸いとはこの事だろう。

もしも私に金銭的ゆとりがあって、広い立派なバスルームを持つホテルなどに泊まっていたとしたら、

私の頭部が、180センチの高さからそのまま床へ直撃していた可能性は充分にある。

多少、吐き気を催していた事もあり、とにかく急な動きは避け、その後、更に30分程かけて、

僅か2メートルばかり先にあるベッドまで這い戻った。


朝になって、昨夜の事件について聞かされた友人は慌てた。

すぐに医者を呼び、更に不安になったのだろう、、、何か困った事があれば電話するようにと

日本を出る前に紹介してもらったマドリッド在住の日本人がいると言って、その方にも電話を

かけてくれた。

確か当時、日本大使館に勤めていた方だったような気もする。

この方も医者も、頭を強く打ったと言う事を聞いて、飛んで来てくれた。

その後、いろいろと検査を受ける羽目になったのはご推察のとおりである。


誰しも、見知らぬ国で、このような事態に見舞われると、きっと自分はここで人生を

終えるのではないだろうか、などと情けない事を考える。

或いは、これは一般的な現象ではなく、ただ単に私がそうであっただけなのだろうか。

とにかく、私は、かなり弱気になっていた。


そんな中で、少しずつ元気を回復してくると、空腹を感じ始めた。

食欲が回復してきたのだ。

大使館勤めの方は、とにかく体力を付けなさいと言って、2,3度、日本食の弁当を作っては

ホテルまで運んでくれた。

そして、弁当が無い時には、友人が近くの日本食レストランへ出向いて、

訳を話し、うどんの出前をしてくれたのである。

このレストランが忘れもしない「どん底」であった。


 「すみません、こちらでウェイターのアルバイトをさせて頂く事は出来ませんでしょうか?」


そこは、かつて我々3人の貧乏学生がカウンターで涙を流した店でも、病で何も食べられない時に、

うどんを持ち出しさせてもらった店でもなかった。

商売繁盛で、最初の店のすぐ傍に、はるかに大きな新店舗をオープンしていたのだ。

そして、旧店舗はそのまま、「居酒屋どん底」として、運営されていた。


「あぁ、いいよ。昼も夜も入れる?」


本来なら、やらせてもらいたいところだったが、自分の本来の目的はヴァイオリンの勉強を

続ける事であって、アルバイトをする事ではない。

昼間はどう考えても無理であった。


「すみません、夜だけお願いしたいのですが」


結局、新しくオープンした店ではなく、昔の店を使った「居酒屋どん底」で夜だけ

働かせてもらう事になった。


昼間はとにかくヴァイオリンの練習をして、夜になると「どん底」へ通った。

ウェイターの中で唯一の日本人だった私は、客との会話をする機会が最も多い

カウンター担当となった。

居酒屋での仕事は、以前、日本でもやった事があったので、特に新鮮味は無かったが、

毎日飲みに来る客が、日本の居酒屋で応対していた客とは全然違うタイプの人達だった。

スペインに長年在住している人々と、日本に住んでいる人々との違いなのだろう。

いろいろな人達と一緒に酒の相手をしながら話をするのは、非常に興味深いものだった。

そして、こう言う場でいろいろな出会いが生じるのである。


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