スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第22章 過ぎたるは及ばざるが如し(後編)


『あんたら、例え勤めた会社を辞めさせられる事になっても、

いくらでもまた他の生き方を考えられるやろ?』


 食事の最中にお茶を飲もうとして右手でコップを持ったその瞬間、コップは

テーブルに落ちた。

右肩に激痛が走ったのだ。手が上がらない。

物をつかんだり握り締めたりは出来るのだが、だらんと垂れたままで、

腕を持ち上げる事が出来ないのだ。

無理に持ち上げようとすると肩に激痛が走る。

この時の自分の顔を鏡で確かめた訳ではないが、おそらく、相当青ざめていた事と思う。

お先真っ暗とはこの事では無いか。


とにかく、右手を出来る限り動かさないようにして、赤十字病院へと急いだ。

私が外国人で、一般人が持つ健康保険を有していない事が判ると、別の建物へ案内されて、

そこで住所、氏名、パスポート番号を尋ねられ、しばらく待たされた後、診察してくれた。

今から思えば、この時もまた、私は一銭も診療費を払っていない。

ここでも私の人生の負債は増えることになる。


赤十字病院では何やら肩の関節に注射を打たれた。

そして、あと4回程通うように言われた。


注射を打ってもらったあと、地下鉄に乗って帰宅する途中、ふと気が付くと、

肩が楽になっている。

驚いておそるおそる腕を持ち上げると、痛みも無く持ち上がるのだ。

先ほどまでの痛みが尋常ではなかっただけに、この即効性が怖かった。

単に麻痺させているだけなのではなかろうか、、、そんな不安が湧きあがってきた。


帰宅して、その日はとにかく右手を使わないように安静にしていたが、翌日になると、

また肩の痛みは戻っていた。

やはり、治していると言うよりも、麻痺させている、そんな感じがした。

そこで、私は、この注射を繰り返す前に、試しに別の医者へ行って相談してみた。

すると、その医者が言うには、その注射は非常に強いもので、何度も繰り返すのは

危険だから奨めないとの事。

これは困った。

迷いながらも、2度程、注射を受けに通ったが、やはり2番目の医者が

言った言葉が気になって、最後まで通うのをやめた。

どうして良いのか判らずに困り果てた私に救いの手を差し伸べてくれたのが、

当時付き合っていた香港人の女性だった。

彼女が中国大使館で働く友人に針灸師を紹介してもらって来たのだ。

大使館の人達が必要あれば通っている所だから、安心して相談してみれば良いとの事だった。


彼女に付き添ってもらって私はその中国人針灸師を訪ねた。

まるでモデルのようにスタイルが良く、まるで俳優のように美人だった彼女を見て、

まだ若い針灸師は、ご機嫌だった。

彼女が、私の症状と、私が金に困っている事を中国語で説明してくれると、彼は、

初診料を無料にしてくれ、かつ、毎回の治療費を通常の半額にしてくれた。

私の借金人生はまだまだ止まる所を知らないようである。


こうして、私は生まれて初めて、針治療を受ける事になったのだが、3ヶ月程通った末、

随分と良くはなったものの、これでは完治しない事を悟った。


日本からは心配した両親がいろいろな塗り薬などを送ってくれたが、何をしても無駄だった。

しかし、3ヶ月の針治療や塗り薬のおかげで、私の右手は、日常生活には

ほぼ支障をきたさない程度にまで回復した。

お箸を持つことも出来れば、コップを取ってお茶を飲む事も出来た。


この時、私にとって大きな選択の時期が訪れていたのだ。

私の夢であり、スペイン滞在の最大の目的であったヴァイオリンは諦めざるを得まい。


生まれて初めて、何かに夢中になったのが、ヴァイオリンだった。

遊びで始めたものが、スペイン留学で知り合った友人、マリア・ホセの一言で、

本気でやる決意をし、ポーランド人のアナやアンドレス、日本の恩師、そして老後の蓄えの

一部を割いてヴァイオリンを与えてくれた両親の協力を得て、がむしゃらに

突っ走ってきた訳だが、ここに夢は果てるのである。


なんともあっけない結末では無いか。

出来る限りの努力はした。それなのに、全てはこれで終わる。

人生のなんとも冷酷な事か、、、


これで今までの全ての努力は水の泡と化し、私が巻き込んだ人々には会わせる顔も無い。

このような否定的な考えが頭を埋め尽くした。


いろいろな事を考えた。今までの事、これからの事。


これからの事を考えると気分が暗くなった。


今までの事を考えると、もはやそれは過去の思い出であり、楽しかった事を思い出すと

顔が自然とほころび、苦しかった事を思いだすとそれはそれでまた自分の労をねぎらうような

不思議な感覚におおわれ、心が優しくなるのを感じた。

そして、もっと遥か昔の思い出へと遡っていった。


 いつの頃だったろう、あるサラリーマンが会社を首になった後、それを苦に自殺をしたと言う

テレビニュースを見ながら、母親が我々兄弟にこう言ったのである。


「この人、会社を首になって、それで全てが終わったと思わはったんかなぁ、、、

他にいくらでも生きていく道はあったやろうに。 あんたら、例え、勤めた会社を

辞めさせられる事になっても、いくらでもまた他の生き方考えられるやろ?」


おそらく中学生ぐらいの時に聞いた言葉だと思う。

きっと本人は覚えてもいないだろうが、こんな些細な一言を子供とは良く覚えているものだ。


そうだ、あのまま一生、右手が使えない事を思えば、これだけ回復しただけでも

感謝せねばなるまい。

ヴァイオリンと言う会社を辞めたところで、まだ自分の周りにはいくらでも他の道が

伸びているはずではないか。

とりあえず、もう少しスペインでの生活を続けて次なる道を探してみる事にしよう。


ヴァイオリンを通じてがむしゃらに生きたこの人生で学んだ事・・・


「どんなに努力をしようが、過ぎたるは及ばざるが如し。身体を壊すほどやっては

何も実は結ばない。」


勿論、そんな事とは別次元で、苦学生を気取る私を心から助けてくれた人々との出会いと、

彼らの生き方から学んだ事は、あまりにも膨大で、あまりにも高尚なものであったのは

言うまでも無い。

彼らに借りた借金はこれからの人生を通して返しつづけなければなるまい。


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