私はスペイン語で次のように書いた紙を住民の郵便ポストが並ぶ所に貼り出した。
「先日、私のポストから封筒を抜き出し、中に入っていたCDを取り出し、
その他のものをごみ箱に捨てた者がいる。
その人に言っておくが、あのCDはあなたが知っている普通の音楽CDではなく、
コンピューター用のもので、通常のプレーヤーで再生しても何も聞こえないばかりか、
特殊な発信音を出すため、プレーヤーに害を及ぼす可能性すらある。
更にこのCDはスペインで販売されているコンピューターで使うことも出来ない。
つまり、あなたにとっては全く価値の無いものだが、私にとって大切なものだから
返してもらいたい。
返してくれる時には、CDに傷がつかないよう、何かで包んで私のポストに
入れておいて欲しい。」
その翌日である。デパートのビニール袋で丁寧にくるまれたCDが一枚、
私の郵便受けに残されていたのは。
こそ泥程度で、音を上げる私ではなかったが、更なる問題が発生した。
私の部屋の真向かいに一人で住むスペイン人女性がいたのだが、毎日、建物全体に
響き渡るような大音量で音楽をかけるのだ。
全ての住民が困り果てていたが、中でも幅1メートルに満たない狭い廊下を挟んで住む
私にとってはまさに最悪だった。
更に彼女は窓を開けたままでこれをやる。
何度も苦情を出したが相手は全く改める気が無い。
それどころか、どうも反応がおかしい。
身体は間違いなく起きているのだが、目がおかしいのだ。
それでいて、反応が無い訳でもなく、こちらが何かひとこと言うと、とんでもなく汚い
言葉が返ってくる。
一日中酔っ払っているのだろうか、、、いや、そうではない。
” ヤク ”をやっているのだろう。
ある日、いつもの如くディスコ顔負けの大音量で音楽が始まったとき、私は、
開いた窓から覗き込んで 「うるさい!」 と怒鳴りつけた。
すると、部屋の中にはまだ20歳そこそこの彼女が全裸で床にあぐらをかいている
ではないか。
一瞬、覗き見をしてしまったような感を持ったが、やはり彼女の様子は普通ではなかった。
恥ずかしそうな仕草など全く無く、どんよりと曇った目を私に向けて、ゆっくりと
アゴをしゃくりあげて、「ケー!」(文句あるか!)と一言発しただけだった。
初めての一人暮らしを始めたこの小さなアパートメントでの逸話は他にもある。
私の隣には決して姿を見たことの無い男女が住んでいた。
見たことが無くても、中が空洞のレンガを積んだだけの薄い壁を挟んであちらの様子は
手に取るように判った。
極稀に、セックスもしているのだが、ほとんど毎日、今にも殺し合いが始るのでは
ないかと言うほどの大喧嘩をするのだ。
大声での罵り合いが始まったかと思うと、そのうち、茶碗やら椅子やらテーブルが
宙を飛び交う大騒ぎとなる。
あまりの激しさに果たして警察に通報しなくても良いものだろうかといつも悩んだものだ。
真向かいからは麻薬常習犯の大音響、そして隣からはこれまた尋常ならぬ大喧嘩に囲まれ、
静かな生活からは程遠かった。
やはりどこかへ引っ越すしかあるまいと考えていた矢先である。
私が2,3日留守にして帰ってくると、隣の大喧嘩が全く聞こえない。
何日かが過ぎた。
それでもやはり喧嘩が始まらないどころか、全く音がしない。
留守なのだろうかと思いながら、仲の良い住人にそのことを告げると、こう言われた。
「あれ、知らなかったのか? あそこに住んでいたやつ、自殺したんだよ。
どこの国の奴だったか忘れたけど、なんでもヘロインをやっていたらしい。」
どうやら、ちょうど私が留守にしている間に死んだらしい。
そしてある夜、アパートに戻りエレベーターに乗ろうとしてその扉を開け、
中の壁に血が飛び散り、その床に血溜りがあるのを見た時、すぐに引っ越す決意をした。
経済的な住居を探すのは大切なことだが、最低限の安全の確保を優先すべきだ、、、
幸い、若い私にもそれぐらいの判断力はあったようである。