スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第24章 初仕事(前編)

『仕方が無い。あなた、なんとか時間を稼げる?』


 El violin antiguo(古いヴァイオリン)と言う名前の楽器商を見つけた。
楽器商と言っても、ヴァイオリン族の楽器のみを扱う店だった。
ある日、そこへふらりと立ち寄ったのだが、店のオーナと仲良くなり、いろいろな
ヴァイオリンを弾かせてもらうようになった。
そしてその中で一つ、非常に気に入った楽器を発見したのだ。
明るく朗らかで、それでいて哀愁に満ちた声を出す奴だった。
私はこのヴァイオリンに一目惚れしてしまった。
値段を尋ねると85万ペセタだと言う。当時のレートで120万円ぐらいだったろうか。
日本でこのレベルの楽器を買うとなると、おそらく400万円は下るまいと、
私の乏しい知識は主張していた。

これが欲しい。
これを買ってから日本へ帰る事を考えよう。
そしてアマチュアオーケストラで楽しみとしてのヴァイオリンを続ければ良い。

こう考えると、とにかく、お金を貯めなければならなかった。
日本からの観光ツアーの送迎アルバイトをやっているだけでは、なかなかこれだけの
金を貯めるのは大変だ。
何かもっと効率の良い仕事を始めねばなるまい。
私は送迎のアルバイトをさせてもらっていた旅行社へ足を運び、社長と会って
自分の希望を伝えた。

 「送迎アルバイトではなく、本格的に通訳ガイドの仕事をやらせて下さい。
 私はこちらの音楽院でヴァイオリンを学んではいましたが、もともとは外国語大学の
 スペイン語科卒ですので、スペイン語は私の専門分野です。」

私の希望はすぐに受け入れられた。
各種通訳については、勿論、経験がものを言うのだが、昔から語学が得意であった
私にとっては、特に恐れるものでは無かった。
しかし、観光ガイドの仕事は、私が学生時代に学んだスペインの歴史、経済、社会、
美術などの知識が直接役に立ったとは言え、それだけではあまりに不十分だった。
不安の原因は単純である。
いきなり自分にプラド美術館の解説が出来るのか? 
アルハンブラ宮殿の説明が出来るものなのか? サグラダ・ファミリアの解説は?

誰だって初めは同じように何も判らないものなのだから、心配する事は無いと
周りの先輩諸氏に励まされ、とりあえずは、ベテランと呼ばれる方の観光バスに
同乗させてもらう事になった。

 「明後日の朝、9時15分前に○○ホテルのロビーに行って下さい。」

そう言われて、多少の緊張と共に、約束の場所へと赴いた。

 まず顔を合わしたのは、すでに顔見知りであったスペイン人の公認ガイドだった。

 「今日から実習生なんだって?」

彼女は優しく笑いながら私にそう話し掛けてくれた。

 時間は、約束通りの9時15分前だ。
勉強させてもらう日本人のベテランガイドの姿はまだ見えない。

 ここで念のために説明しておくと、スペインでは現地人の労働環境を守るために、
公認ガイドのライセンスはこの時代、決して外国人には与えられなかった。
そして、ツアーがグループで観光を行う時には、公認ガイドを雇わなければ
いけないと言う決まりがあるのだ。
つまり、必ず、スペイン人ガイドを雇わなければいけないわけである。
例え、日本人ガイドが全て日本語で説明する場合であっても、そのグループには
スペイン人の公認ガイドが同行していなければいけないのである。
では日本人ガイドとは、一体何なのかと言うと、法的にはガイドではなく、
通訳と言う位置付けとなる。
これはスペインに限られたことではなく、他のいくつかの国でも同様の措置が
取られている。

 ホテルの前には大型バスが止まっており、この日、私が同乗させてもらうツアーの客が
次々に乗り込み始めた。
それを指示している日本人女性が一人。
彼女が日本から同行してきた添乗員だろう。
私がスペイン人公認ガイドと話をしているのを見て、こちらへ近づいてきた。

 「おはよう御座います。添乗員の○○と申します。よろしくお願い致します。
  お客様はもう皆さんお揃いですので、いつでもOKです。」

明るい笑顔で、彼女はこう挨拶してくれた。
時間は9時5分前である。間もなく観光の出発時間だった。
彼女は完全に私を今日の案内をしてくれる日本人ガイドだと思っているようだ。
いやはや、これは困った。私は今日のガイドでは無いのだが、、、

 すでに、スペイン人ガイドは、旅行社に電話をかけて事態の報告を始めていた。
来るはずの日本人ガイドの自宅にも電話を入れたが、留守で誰も出ないらしい。

実は自分はガイドではなく、今日来るはずのガイドが来ないのだと言ってしまうのは
簡単だったが、それでは旅行社の責任が問われる訳で、私としては、あと5分、
出発時間ぎりぎりまで様子を見るべきだと判断し、9時ちょうどに出るので、
あと少し待ってくれるよう添乗員に伝えた。

 こう言う時の時間が経つのは実に早いものだ。
出発時間は秒刻みで近づいてくる。
あと2分、、、 

スペイン人ガイドが言った。

 「仕方が無い、あなた、なんとか時間を稼げる?」

 「マドリッドの街中をバスで観光するぐらいならなんとかなるけど、
  プラド美術館は無理だよ!」

勿論、この仕事を始めると決めてから、自分でも美術館に通い、関連書物にも目を通し、
それなりの勉強は始めていたが、まさか、突然説明しろと言われても出来るものではない。
自分で理解していても、人に話す時にはその話し方があるだろうし、時間の配分は?
  どの絵がどの部屋にあるのだ? 誰のどの作品を説明するのか?

 「とにかく、ゆっくりとバスを使った車窓観光を始めましょう。
  スペイン広場で下車して広場の説明ぐらい出来る? 
  そこで落ち着いて説明をして、その後、たっぷりと写真の時間をとって。
  その間に私は彼が見つかったかどうか、旅行社に電話をしに行くから。」

今なら携帯電話と言う便利なものがあり、このような事態でも慌てずに行動出来るのだが、
当時はそうもいかず、公衆電話だけが頼りだった。

仕方が無い。添乗員に状況を説明する事にした。


目次へ

トップページへ戻る

無断転載、お断り致します