くま伝
日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ
『いいから弾いて御覧なさいってば』
渡る世間に鬼はなし、とは良く言ったものである。
一生懸命生きていれば、必ず周りに力になってくれる人が現れると言うのは、
私の短い人生で幾度となく経験した事である。
バジャドリと言う町がある。特に観光地では無いため、この町の名を知る日本人は
極稀であったが、2000年頃だったろうか、サッカーの城選手がこの町のチームに
やって来たのを機に、日本でも随分とその名が知られるようになった。
外国人コースにて、そのスタートを切った。
同じクラスには、我々日本人が5、6人。その他は、アメリカ人、ドイツ人、ブラジル人、
イタリア人などなど、まさに私が生まれて初めて体験した、文字通り国際的な環境が
そこにはあり、いろいろな事を学べそうな予感がした。
そう、私の留学目的は語学習得では無かったはずだ。
誰かから、その事を聞き知ったのだろう。
小さな子達が、これまた小さなヴァイオリンを一生懸命弾いている姿に感動して、
得意の「好奇心」が頭をもたげた。
これは面白そうだ。 やってみたい!
それでも少しは小遣いも残った。これを投じて手に入れたのが、機械による大量生産の
安いヴァイオリンだった。
二十歳を過ぎてからの手習いである。それがどうした?
やってみたいと思うのだから、やってみれば良いじゃないか。
なかった私は、もしやスペインに行けばそう言う時間が出来るのでは無かろうかと、
この安物ヴァイオリンを持って留学に赴いたのである。
音の鳴らし方など基本的な事は、同じく大学に入ってからクラブ活動でヴァイオリンを
始めた友人に教わった。それだけである。
それにしても、この楽器の音色の素晴らしい事よ!
ぎこぎこと、のこぎりのような不快な音がほとんどだったが、たまに間違って出る音の
素晴らしい事と言ったらなかった。
あぁ、せめてあと十年前にこの素晴らしい楽器との出会いがあったら、、、
心底、残念に思ったものである。
まぁいい。これで食べていけないのは当然だが、せめて趣味として始めてみよう。
こうして、どう言う訳か、ヴァイオリンが私のスペイン留学生活の中で重要なウェイトを
占めるものとなっていた。そんな時である。ドイツ人のクラスメートから声がかかったのは。
弓を売りたがっているのだけど、興味ある?」
失礼な事ではなかろうかと、ためらいもあったが、とにかく会ってみることにした。
マンション、所謂、集合住宅である。町にはそう言ったマンションが林立している。
さほど背の高いマンションでは無いので、町全体として、それほど圧迫感がある訳ではない。
そう言った何の変哲もない極一般的なマンションに彼女、アナ・レテックは住んでいた。
彼女はポーランド人で、バジャドリ市が運営するオーケストラでビオラ奏者として働いていた。
広くも無いマンションには、彼女の五つになる男の子ミゲルと、同じオーケストラで働く
オランダ人のフルート奏者が一緒に生活していた。
家賃を少しでも安くあげるために、一つのマンションをシェアーしていたのである。
これは、昔も今も、スペインでは良く見かける生活形態である。
良いのだろうか。そのまま返しに来なかったらどうするのだろう、、、
これは私の驚きを伴った素朴な疑問だった。
それでも、彼女のあまりにも自然なオファーに、その好意に甘んじる事にした。
これが、私にとって人生の友と呼べるアナ・レテックとの出会いである。
ポーランドと言う決して裕福とは言えない国からスペインに出稼ぎに来ていた彼女には、
5歳の男の子と、別れたダンナがいた。
元ダンナは同じオーケストラでヴァイオリンを弾くアンドレスと言う人物だった。
感じながら帰路を急いだ。
そして、見ず知らずの私を信用して、大切な弓を貸してくれた彼女に、一日たりとも
余計な不安を感じさせてはいけないと思い、約束の1週間がたったその日に、再び
彼女のマンションを訪れた。
その当時、弓の良し悪しなど全く判らなかった上に、極端な貧困財政にあった私は、
結局、その弓の購入を断念した。
コーヒーを入れてくれた。
そして、5歳のミゲルが遊んでいる中、我々3人で会話をしていると、アナが私に言った。
嘘をつくことも出来ず、まだ始めたばかりである事を伝えた。
アナは特に驚きを示す事もなく、こう言った。
弾いて見せた。
一体、あの時、何を弾いたのか、今では全く記憶にない。
そして、自嘲気味に「ひどいものです」と吐いた。
彼女の反応は意外だった。
週に一回のレッスン。
レッスン料は、、、「タダ」だった。
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