スペイン生活30年・今も続く私の冒険

くま伝

日本を飛び出してみたいと考えている方々、目的を見出せず悩んでいる方々へ


第7章 スペインで迎えたもう一つの誕生日


『え?? じゃあ、ここに40歳の人がいて、ヴァイオリンをやりたいと言ったら、

 あなたはもう遅すぎるからやめておけって言うわけ?』


 一体、誰を介して知り合ったのだろう、、、今では全く記憶が無いのだが、

バジャドリ音楽院のヴァイオリン学科で勉強中の彼女、マリア・ホセと一緒に、

大学の傍にあったカフェ・モーツアルトでお茶をしていた。

彼女は私より3つ程年下だっただろうか。

少し太めで色白で、妙に日本人と似た顔つきをした子だった。

共にヴァイオリンを弾くと言う事から、仲良くなりいつの間にか、慣れない国で、

相談すれば何でも力になってくれる大切な友人となっていた。

しかし、帰国の日が近づくにつれ、お互いに別れの日が近づいている事を知っていた。

特に恋人と言う訳ではなかったので、その種の感傷は無かったが、それでも、

親しい友人と分かれるのは寂しいものである。


 「で、日本に帰ってどうするの? ヴァイオリンは?」


大きな目で私の顔を覗き込みながら、彼女はそう尋ねた。


 『就職したら、きっとヴァイオリンを続ける時間なんて無いと思うよ』

 「じゃぁ、辞めちゃうの?」

 『仕方無いだろうね、、、』

 「もう一度何とかして戻ってきて続ければ良いじゃない?」

 『無理だよそれは』

 「どうして?」

 『だって、もう大学も卒業だし、働かなければいけない。これ以上ふらふらと

  無職でいる訳にもいかない』

 「だったら、ちゃんとヴァイオリンを続けて、オーケストラにでも入って

  それで食べて行けばいいでしょう?」


なんとも幼稚な事を言うものだ。

やはりスペイン人は日本人に比べて精神年齢が幼いのだろうか。


 『ヴァイオリンみたいなものは、日本なら幼稚園の頃から英才教育を受けた連中が

  プロを目指すんだ。こんな20歳過ぎた男が今更プロになれるはずもないだろう?』


やれやれ、残念だが、まさに自分の言う通り。せっかくやりたい事を見つけたと言うのに、

少なくとも10年は出会うのが遅かった。人生なんてこんなものか、、、


 「でも、ヴァイオリン好きなんでしょう?」

 『勿論、大好きだよ』

 「じゃぁ、なぜ続けないの?」

 『もう年だから!』

 「え?? じゃあ、ここに40歳の人がいて、ヴァイオリンをやりたいと言ったら、

  あなたはもう遅すぎるからやめておけって言うわけ?」

 『そうだね。そう思う』

 「Bah!(そんな馬鹿な!) 私には理解できないわ! 

  あなたの人生はまだまだこれからなのよ。やりたい事があるなら、どんどんやれば

  良いじゃない。何のために生きてるの?」


この時の彼女の言葉が、実は私の人生に決定打を与えた。


そうだ、これだったのだ。これこそが、私がスペインに探しに来たものではなかったか?

私は最初、これを非現実的と批判し、幼稚な考え方であると評価した。

本当にそうだろうか?


自分がやりたいと思う事を、所謂社会一般の常識に照らし合わせて、それからはずれる

と言う理由で断念するのが大人のとるべき態度で、それに逆らった行為が果たして

幼稚な事なのか?

一体、社会一般の常識とは何なのだろう? いや、社会とは何なんだ?


 我々が社会と言う言葉を使う時、往々にして世界の中で豆粒のような存在でしかない

日本の社会をその全てであるかのように取り上げる。

そして、その豆粒の中で成り立っている常識と言うものを、まるで世界中に通用する

常識であるかのごとく錯覚してしまうことが多い。


日本の常識はあくまでも日本の常識であって、スペインにおいては、必ずしも常識では無い。

日本で他人の家を訪れる時、靴を脱いで入るのが常識だが、スペインでは誰も

そんな事はしない。

スペインでは人を紹介されたら、男女間、或いは女性同士であれば、左右の頬にキスをして

挨拶するのが極当たりまえだが、日本でそんな事を初対面の人にしたら、叫び声を

あげられるだろう。

つまり、ここでは日本とは違った常識や価値観がこの国の社会を統括しているのだ。


私は、今まで何をしていたのだろう?


これを見に、これを感じに、これを求めてわざわざスペインまでやって来たのでは

なかったのか?

それに直接触れた時に、私は危うく、「幼稚なもの」として見過ごすところだったのである。

この時、3歳も年下のマリア・ホセから、いとも当たり前の事のように言われたその時に、

私は、ストレートカウンターをくらって、この世を去った。

そして同時に、スペインにおいて新しい生を受けたのである。

日本人の常識と価値観に、スペイン人の目を携えて。


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